当社の創立は昭和28年となっています。


ただ、創業はというと私の父が戦争が終わって外地(韓国)から引揚者として戻ってから商いを始めた時になります。


ですので正確な年月日は聞いていませんが多分昭和20年か21年だろうと思います。

外地から引き揚げてからは父の実家のあった宇部市の小野地区という田舎の方で暮らしていました。


とても田舎なので働く場所は当然ありません。


ですので食べるために何かをしていく必要がありますので、とりあえず瀬戸内の魚を漁師から買って現在の新山口駅がある山口市南部の小郡というところで売り捌くことをしていました。


宇部の田舎から最短の漁港、阿知須まで20km以上もあります。


当時は車などは一部の人しか乗れませんでしたので、当然買い出しは大八車という人力で引くリアカーのようなものです。




これを当時の私の父は毎日種銭を握っては宇部と阿知須と小郡で商いをしていたわけです。


毎日20km、往復40kmを山道を往復するのは大変だったと思います。


当時の日本人はただ、生きるためにこのような過酷な労働をだれしも厭わなかったのです。


ただ、戦争という悲劇が終わって人々に希望があったのが何よりだったのでしょう。


生きるために誰もが必死になって働いていた、それが戦後の日本だったのです。



父の魚の行商は思ったよりも儲かっていました。


当時、小郡でいくら位で売ればいいのかも全く分からなかったので、父は多少吹っ掛けたつもりで買った値段の倍でどうかと小郡の客に提案しました。


そしたら、帰ってきた反応は意外なもので、

 それは安い、オレのところにも、オレのところにも売ってくれ!
 
という予期しない良い反応だったそうです。


当時は3倍か4倍で売っていたのが相場だったのでしょう。


そして、魚の行商は大変スタートから上手くいっていたのですが、なにぶん体力は相当使う仕事です。


いつまでも人力で出来る仕事ではありません。


オート三輪を買うという手もあったのでしょうが、そこまでの資金はまだ用意することが出来ません。



そこで考えたのがお菓子の製造です。


当時は戦後間もなくて、甘いものに人々は飢えていました。


欲しがりません、勝つまでは!のスローガンで国民は皆我慢を強いられていた時代です。

甘いものなんて贅沢品の筆頭と言っていいものでした。


菓子の製造といったって、饅頭や羊羹なんてものは大きな機会が必要ですし、ましてその材料も容易には手に入りません。


そこで考えたのが飴です。


材料も芋とかで、これなら田舎では十分調達できますし、何よりも鍋が一つあれば作れるのが強みです。


そして父はここから差別化を図りました。


当時の飴は1銭玉とかいう物で、要するに裸の飴を大きな瓶にいれて店頭で1個1個売るというのが当たり前でした。






これを1個1個紙に包んで、名前も飴玉ではなく、キャンデーという名前で販売したのです。


この価格とかは私も聞いていなかったのですが、これが大当たりで家族総出で作っても間に合わないほど売れに売れたようです。


いま考えると紙に包むことで持ち運びも便利になって需要も伸びたのではないでしょうか。


ちょっと長くなりましたので以後は次の投稿でお話ししましょう。