君九齢 ・「九齢公主」~隠された真実~
第2話。
寧家との婚約騒動の場面を
見て感じたのは、
私自身も含めて、
寧家の夫人や娘のような状態で
物事に向き合ってしまう人は、
とても多いのではということです。
それは決して
「悪い人だから」でも
「未熟だから」だけではなく、
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傷つきたくない
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自分の立場を失いたくない
-
劣っていると思われたくない
そうした
怖さから生まれる自然な心の反応
なのではないかと、、、。
寧家の母娘が
象徴しているもの
彼女たちは、
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九齢に勝ちたい
-
正しくありたい
というより、
「自分の価値が脅かされている不安」
に耐えられなかった。
だから、
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感情で相手を否定する
-
世間体を持ち出す
-
相手の人格を下げようとする
という行動に出てしまいます。
これは現実の人間関係でも
本当によく起こります。
なぜ自分を
重ねてしまうのか
自分も含め 世の中には、
寧家の婦人や 娘のような状態で
対峙している人が多い
と感じてしまいます。
それは、このドラマは、
「誰かを断罪するために
彼女たちを描いているのではなく、
見る側が“自分自身”を投影できるように
設計している」
からです。
寧家の人々の姿に、私たちは
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人を羨んだ自分
-
認められなくて悔しかった自分
-
つい相手の欠点探しに走った自分
を重ねてしまう。
だから胸に刺さるのですね。
九齢が示しているのは
「理想」ではなく「道」
九齢は、
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生まれつき強い女性
-
完璧な勇者
ではありません。
彼女もかつて、
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恨みを抱き
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怒りに揺れ
-
感情に飲まれた
時代を通ってきた人です。
その果てに辿り着いたのが、
感情ではなく、理で生きる
比べるのではなく、自分の立ち位置を知る
という在り方。
だから九齢は、
**「特別な人」ではなく、
“そう在ろうとしている人”**
として描かれているのです。
寧家の母娘は
「過去の九齢」でもある
とても大事な視点は、
寧家の女性たちは
「九齢と対照的な他人」ではなく、
もし九齢が成長しなければ、
なっていたかもしれない姿でもあります。
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感情を正義だと信じ
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他人と比べて生き
-
世界を狭くしていた九齢
その可能性を、彼女たちが担っている。
だからこの対比は、
とても生々しいのです。
気づき
この物語を
自分も含め
と考えると、
「ああいう人はダメだ」と、
**無意識に“外側に敵を作って終わり”**
にならず、
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作品を人間批評として終わらせず
-
自分の心を映す鏡にする
そうすると、
これは、九齢が歩いている道と
同じ姿勢になるのでは
と感じています。
このドラマが響く理由
『君九齢』が、
単なる復讐劇でも、恋愛物語でもなく、
「多くの人の心に深く残る作品」
になっている理由はここ。
この物語は、
-
誰を裁くことも
-
誰かを一方的に悪と決めつけることもなく
「人は誰でも、寧家の側にも、
九齢の側にもなり得る」
ということを、静かに突きつけてくる。
だから私たちは、
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観終わった後に
自分の人生を振り返りたくなる -
人との向き合い方を
もう一度考えたくなる
のだと思います。
このドラマは、
九齢の辿った心の旅路と呼応するように、
一つ一つを丁寧に味わいながら、
自分の心も見つめ直すことができる。
そんなドラマだと感じています。
最後までお読みいただき
ありがとうございます。
ドラマを楽しむ一助となれば幸いです💕
