君九齢 ・「九齢公主」~隠された真実~
『君九齢』が描く
女性像の深さ
第2話。
君蓁蓁となった九齢。
寧家との婚約のことで、
寧家の夫人と娘との争いが
起きてしまいます。
あの場面は、
-
婚約の「是非」を本気で争っている
-
九齢側の正当性を揺さぶっている
という構図ではありません。
“議論になっていない争い”
をわざと描いているシーンなんです。
寧家夫人・娘の
振る舞いの本質
あの場面で彼女たちは、
-
礼儀
-
家格
-
女の慎み
-
世間体
を持ち出して、九齢に難癖をつけますが――
それらはすべて
感情と立場からの言いがかり
であって、
論理としては一切成立していない。
つまりあの場面は、
「婚約に不当性があるかどうか」
を論じているのではなく、
“九齢に言葉で勝てない側が、
感情でもがいている姿”
を描いています。
愚かさの所在は
「主張」ではなく
「自覚の欠如」
このシーンの本質は――
婚約を否定しようとしたこと
自体の愚かさではない
のです。
愚かさは、
-
自分たちがすでに「論理的に負けている」こと
-
九齢と対等に議論できない位置にいること
に本人たちが
気づいていない点にあります。
彼女たちは、
-
まだ“争っているつもり”
-
まだ“主導権を取れているつもり”
でいる。
しかし実際には、
-
すでに議論の土俵にすら立てていない
-
九齢の論理と胆力の前で
完全に見透かされている
状態です。
九齢の圧倒性は
「勝ち方」にある
九齢がすごいのは、
-
相手を言い負かさない
-
感情論に巻き込まれない
-
冷静に「沈黙」と「間」で相手を封じる
ところ。
彼女は、
勝つべき相手とは戦い、
戦う必要のない相手とは戦わない
という選択をしています。
寧家の人々は、
-
もう勝負するに値しない相手
であることを、
九齢は理解していて、
彼女たちだけが理解していない。
ということなんです。
この場面は
「身分差」ではなく
「知性差」の描写
重要なのは、
このシーンが描いているのは
**家格の差でも、身分の差でもなく、
“思考の次元の差”**だということ。
-
寧家:
→ 世間体・感情・嫉妬・体裁の世界で生きている -
九齢:
→ 法・理・因果・戦略の世界で生きている
住んでいる世界そのものが違う。
だから会話が噛み合わない。
というわけなんです。
「気づけなかった
ことが愚か」
「九齢には、欠して言葉はもちろんのこと、
理論としてもかなわないことを
悟れなかったことにこそ、愚かさがある」
――これは、本作が描きたかった
“女性同士の力関係”です。
愚かさとは
-
負けること
-
間違えること
ではありません。
“負けている現実を、認められないこと”
そして、
自分の位置を見誤ること
――それが、最大の愚かさなのだと、
この物語が伝えてくれています。
『君九齢』が描く
女性像の深さ
この作品は、
-
「強い女 vs 弱い女」という単純図式ではなく、
「自己認識できる女 vs 自己欺瞞する女」
の対比で人物を描いています。
九齢は常に、
-
自分が何者か
-
何をしているのか
-
何を賭けて生きているのか
を正確に自覚している人物。
一方、寧家の女性たちは、
-
自分の感情を「正義」だと思い込み
-
立場を「力」だと勘違いしている。
この「認識の差」が、
婚約騒動という
一場面に凝縮されているのです。
最後までお読みいただき
ありがとうございます。
ドラマを楽しむ一助となれば幸いです💕
