今年のある夏の夜、家の近所を歩いていると、道端に黒い小銭入れが落ちているのを発見しました。
おもむろに拾い、中を見てみると、四角く折られた千円札が1枚だけ入っていました。
千円といっても、僕のようなドケチ人間からすると、決して馬鹿にできない金額です。
もちろん交番に届けたのですが、そこには目論見がありました。
・3ヶ月経っても落とし主が現れなければ、法的に所有権が僕に移ること
・その年季の入った黒革の小銭入れはおそらく年齢の高い男性の物で、千円の他にカードなど何も入っておらず、きっと持ち主が現れないだろうということ。
これらのことから千円が僕の物になることが推測できたのです。
僕は交番に行き小銭入れを届けました。
お巡りさんは慣れた感じで聞いてきたので、僕は食い気味で返答しました。
「持ち主が現れなかった場合の権利はどうされ」
「権利を主張します。」
「・・わかりました。」
そして僕は時間をかけ、持ち主が現れなかったときに所有権を僕に移すための『拾得物件預かり書』に必要事項をいそいそと記入しました。
夜の静かな派出所内に、僕が走らせるペンの音が響き渡ります。
そのペン先を見つめる、お巡りさんの面倒くさそうな顔。
僕は知っていました。
この国では、財布を届けたときに名前も名乗らず去っていく人が大半だということを。
しかし僕は、
「名乗るほどのものではありません。」
とは決して言わず!
フルネームを名乗り、
時間を割き、
住所、アパート名、部屋番号まで記入し、
死に物狂いで千円が自分のものになる権利を主張したのです!
そして3ヶ月が経ちました。
僕は、タダでお金が手に入ることにウキウキしてしまい、その3ヶ月の間千円のことで頭がいっぱいでした。
ネタ合わせをしていても食事をしていても、女性と夜を共にしていても、頭の隅には常に野口英世がいました。
街で鼻の下に髭を生やしたおじさんとすれ違うだけで、僕の胸は張り裂けそうになりました。
野口英世のことを考えぎて黄熱病にかかるかと思いました。
僕は拾得物件預かり書を握りしめ、交番に向かいました。
交番に入るやいなや、印籠を見せつけるかのごとく書類を突き出しました。
「千円を貰いにきました!」
しかし、思わぬことが。
「受け渡しなのですが、遺失物センターに行って頂いて、その書類と引き換え下さい。」
え・・ここで貰えないの?
僕はすぐさまスマホを取り出し、遺失物センターまでの行き方を検索しました。
電車で往復320円でした。
・・・?
ここで色々計算してみました。
書類の作成や交番への移動時間などこの件で何やかんや費やした時間、1時間。
遺失物センターにいった場合の往復移動時間や手続き時間など諸々で、1時間半。
時給換算すると、
(1000円-320円)÷2時間半で、272円
時給272円!
時給272円!
ふざけるな!!
俺をみくびるな!!
稼いでないけどな、日々一生懸命生きて、ガスも水道も止められることなく国民年金だってちゃんと払ってる30才だぞ!!
ふざけるな!!
俺をなめるな!!
何だと思ってるんだ!!
交番から出ると、冷たい木枯らしに身を撫でられマフラーをきつく巻き直しました。
震えていたのは、冬の寒さのせいなのか、悔しさのせいだったのか、今となってはわかりません。
僕はポケットに冷たくなった手を突っ込み、下を向いて歩きだしました。
そのままどれだけ歩いたでしょう。
歩みを止め、上を見上げると思ったのです。
「ここが遺失物センターか。」