上の子を憎らしく思ってしまった時 | ++ Go Easy ++

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よにん暮らしの日々つれづれ。。。

自分の心にわだかまりを残したまま、
今日は何とか長男とは楽しい時間を過ごせました。

昨日の記事で教えていただいた二つの詩。
読んで、涙が止まりませんでした。

読みながら泣き、そして、寝ている長男の側にいき、手を握って
背中をさすりながらまた泣きました。

改めて、あぁ、自分はなんてことをしてしているんだろう。
と思うと同時に、明日から次男を産む前の自分に戻りたい。戻るぞと
明るい前向きな気持ちになれました。

そして気がついたら、心のわだかまりが消えていました。

きっとまたすぐに、カッとなってしまったり、
イライラして厳しくしてしまったりすると思います。

そんな時は、この教えていただいた詩を読み返して、
今自分の持っている、本当に大切なものに目を向けたいと思います。

そしてこの詩たちが、私と同じような気持ちになってしまった
他のお母さんたちの苦しみを和らげる助けに少しでもなれば・・・と思います。

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父は忘れる  リヴィングストン・ラーネッド


坊や、きいておくれ。
お前は小さな手に頬をのせ、汗ばんだ額に金髪の巻き毛をくっつけて
安らかに眠っているね。

お父さんは、ひとりで、こっそりお前の部屋にやってきた。

今しがたまで、お父さんは書斎で新聞を読んでいたが、
急に、息苦しい悔恨の念にせまられた。
罪の意識にさいなまれてお前のそばへやってきたのだ。

お父さんは考えた。これまでわたしはお前にずいぶんつらく当たっていたのだ。

お前が学校へ行く支度をしている最中に、タオルで顔をちょっとなでただけだ
といって、叱った。
靴を磨かないからといって、叱りつけた。
また、持ち物を床の上に放り投げたといっては、どなりつけた。

今朝も食事中に小言を言った。食物をこぼすとか、丸呑みにするとか、
テーブルに肘をつくとか、パンにバターをつけすぎるとかいって、叱りつけた。

それから、お前は遊びに出かけるし、お父さんは停車場へ行くので、
一緒に家を出たが、別れるとき、おまえは振り返って手を振りながら、
「お父さん、行っていらっしゃい!」といった。

すると、お父さんは、顔をしかめて、「胸を張りなさい!」といった。

同じようなことがまた夕方に繰り返された。

わたしは帰ってくると、お前は地面に膝をついて、ビー玉で遊んでいた。
長靴下は膝のところが穴だらけになっていた。お父さんはお前を家へ追いかえし、
友達の前で恥をかかせた。

「靴下は高いのだ。お前が自分で金をもうけて買うんだったら、もっと大切にするはずだ!」

-これが、お父さんの口から出た言葉だから、われながら情けない!


それから夜になってお父さんが書斎で新聞を読んでいる時、
お前は、悲しげな目つきをして、おずおずと部屋に入ってきたね。

うるさそうにわたしが目をあげると、お前は、入口のところで、ためらった。

「何の用だ」とわたしがどなると、お前は何もいわずに、
さっとわたしのそばに駆け寄ってきた。
両の手をわたしの首に巻きつけて、わたしに接吻した。

お前の小さな両腕には、神さまがうえつけてくださった愛情がこもっていた。
どんなにないがしろにされても、決して枯れることのない愛情だ。

やがて、お前は、ばたばたと足音をたてて、二階の部屋へ行ってしまった。

ところが、坊や、そのすぐ後で、お父さんは突然なんともいえない不安におそわれ、
手にしていた新聞を思わず取り落としたのだ。

何という習慣に、お父さんは、取りつかれていたのだろう!

叱ってばかりいる習慣-まだほんの子供にすぎないお前に、
お父さんは何ということをしてきたのだろう!

決してお前を愛していないわけではない。お父さんは、まだ年端もゆかないお前に、
無理なことを期待しすぎていたのだ。お前を大人と同列に考えていたのだ。

お前の中には、善良な、立派な、真実なものがいっぱいある。

お前の優しい心根は、ちょうど、山の向こうからひろがってくるあけぼのを見るようだ。

お前がこのお父さんにとびつき、お休みの接吻をした時、
そのことが、お父さんにははっきりわかった。

ほかのことは問題ではない。

お父さんは、お前に詫びたくて、こうしてひざまずいているのだ。

お父さんとしては、これが、せめてものつぐないだ。

昼間にこういうことを話しても、お前にはわかるまい。
だが、明日からは、きっと、よいお父さんになってみせる。
お前と仲よしになって、一緒に遊んだり悲しんだりしよう。
小言を言いたくなったら舌をかもう。

そして、お前が子供だということを常に忘れないようにしよう。

お父さんはお前を一人前の人間とみなしていたようだ。
こうして、あどけない寝顔を見ていると、やはりお前はまだ赤ちゃんだ。

昨日も、お母さんに抱っこされて、肩にもたれかかっていたではないか。
お父さんの注文が多すぎたのだ。

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子どもを抱く喜びに浸って欲しい   三砂ちづる


今、あなたはとてもとても忙しいと思う。

慣れない幼い子どもとの日々に翻弄され、
やってもやっても、やるべきことが終わらない家の中のあれこれにため息をつき、
まして外で仕事のひとつもしていれば、なんで私だけが
こんなにがんばらなきゃいけないのよと腹のひとつも立ち、
穏やかにぐっすり眠ってとろとろと夢を見る、ということ自体が
どこか遠い世界のように思うのかもしれない。

おむつもかえなきゃいけないし、おっぱいもあげなきゃいけないし、
ちょっと大きくなってきたら「ママ、おしっこ」と起きてくるし。

ああ、私は毎日忙しい。ゆっくり夢をみること自体が「夢」。
ゆっくり眠りたいだけ眠った、なんていつもことだったかしら。

残念なことに、というか幸いなことに、というか時間というものはゆくりなく過ぎ、
いま、あなたがやっていることはあと数年と続かない。

彼らは学校に行くようになり、
あなたの知らないところであなたの知らないことをする時間が増え、
あなたは夜はもう少しよく眠ることができるようになる。

そうすると朝早くから起きて弁当のひとつも作り、
子どもの外のおつきあいの後始末などもしなければならなくなってくるけれど。
つまりはフェイズが移る。

私はもう50を過ぎている。2人いる子どもは青年になり、
文字通り毎日どこで何をしているのやら。

見上げるような青年になって、私の知らない彼らの日常はまぶしい。
この人たちはもう私の「手の内」では生きていないのだ。

ときおり私は夢をみる。

夢の中には子ども達2人がよく出てくる。

その彼らは、けっして今のような「男に育った」彼らではない。
夢に出てくるのは、幼い彼らだ。
お話ができて、自分のひざにのってくれるくらいの子どもである彼ら。

おそらくあと50年生きても、夢の中の私の子どもは、この大きさであるに違いない。

あのね、ママ、あのね、と、とても高い声で私を見上げ、
「つまらないこと」をいちいち聞きに来たり、報告したりする息子たち。
私がしゃがまないと彼らの視線とは合わず、抱きしめれば腕に足り、
抱きあげれば、そのまま移動できる重さ。私の手の届くところにいる彼ら。

おかあさん、いまあなたのひざにいるお子さんのなんといとおしいことか。

母として、いちばんよい時期。いちばん印象に残る時期。

あなたの子どもはいつもその大きさで、あなたの夢の中で位置を占め続ける。

あなたが人生でつらいことがあった時、あなたの子どもたちは、
そのような大きさであなたの夢の中に現れる。

それが現実と交錯する今こそが、あなたの幸いでなくてなんであろうか。

涙ぐむようにして、幼い子どもをかきいだく喜びにひたってほしい。

それはひとときの至福であり、
長き人生のうちで一瞬にして失われる、人生の最も美しい時間だからである。

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morさん、ありがとう。