健康情報 法話 明覺寺林要昭さん 令和3年5月放送 

 

 

 

ラジオde法話、火曜日は高岡市戸出、明覺寺住職、林が担当します。042821W2588字)

 

リスナーの皆さん、おはようございます。

 

風薫る5です。田んぼに水が入りました。

あちこちに田植えと蛙の合唱です。

いい季節になりました。

 

しかし新型コロナウイルスと、その変異株の蔓延は一向に終息しません。

このまま昨年同様に多くの学校が再びオンラインやリモートの授業に切り替わるのかもしれません。

 

ごとですが昨年、定年退職を迎え教員生活を無事終えました。

まさにコロナ対策で1学期からオンライン授業リモート授業ズーム授業になるギリギリのタイミングでした。

あと1年退職が遅かったらと思うとゾッとしています。

 

しかし数年からICTすなわちInformation and Communications Technologyなしでの授業は考えられなくなっていました。

 

まず5年前黒板が撤去されプロジェクターからの画像無反射で写せるホワイトボードに取って替わりました。

黒板が要らないのでチョークも要らなくなりました。

チョーク界のロールスロイスと言われ「折れない、減らない、手につかない」で有名だった「はごろも」というチョーク会社も消えました。

 

全ての教室にWi-Fiが設置され生徒全員がiPadを持って授業に臨むようになりました。

職員会議iPadで資料が配信されるようになりました。

でも私を含めiPadを使いこなせていない教員もまだいるのです。

資料にアクセスするという、たったそれだけのことがハードルが高くて出来ないような年代の教員は既にお払い箱です。

せっかく目立たないように後ろの席でそっと隠れているのに「まだアクセスしていない先生がおられますね。」と言ってこっちを睨むんです。

誰がアクセスしていないのか、ちゃんと手元でチェック出来るそうです。

アクセスしていないんじゃなくて、アクセスできないから後ろで隠れているのに…この年になって授業中に当てられる生徒の恐怖が始めて身に沁みました。

 

怖い時代になりました。

時代の変化について行けないのはダメな年寄りで私は大丈夫と多寡を括っていましたが気がつけばついて行けないのは、この私でした。

手元には一応アイフォンXSという機種の白いスマホがあります。

でも私が使える機能は電話とメールぐらいだけです。

カメラにもなるし、辞書にもなるし、お金も払えるし、電車にも乗れるし、住所も電話番号も調べてくれるし、予約や道案内までしてくれるらしいです。

「そうなんですか、便利ですねぇ…」と言って寂しく笑うしかありません。

時代に置いて行かれる寂しさはなかなかのものですね。

だったら、ちゃんとマニュアルでも読んで使いこなせばいいのでしょうが実はその気力が無いんです。

若い人に教えて貰うのはプライドが許しませんし、人に聞くのもおっくうです。

知ったかぶりにも限度があります。

 

皆さん「永遠の初心者」問題という言葉をご存知でしょうか。

技術の進歩が指数関数的に加速するので昨日まで習っていたことが今日はもう古いという現象のことだそうです。

これではいくら勉強しても追いつかないですね。

特に日進月歩の医療の世界では一瞬でも勉強を怠るとアッと言う間にオイテケボリでしょう。

そうなると、お医者さん、看護師さん、薬剤師さんは常に「永遠の初心者」問題に晒されていることになります。

ついて行けなくなった年代の人は一体どうしているのかと、ひとごとながら心配になります。

「永遠の初心者」ばかりになると熟練者がいないわけですから先輩とか後輩とか師匠とか弟子とかいう立ち位置も当然、怪しくなるでしょうね。

 

私たちは無意識に今まで自分のやり方が正しいと思いがちで新しいものからは、なんとなく距離を置いてきました。

私たちの本質は実はかなり保守的なのだと思います。

誰だってオイテケボリにされるのはいやですし、かと言って新しいことを学ぼうとして「永遠の初心者」にもなりたくないです。

 

既成の価値観の中で、それなりの立ち位置を担保して先輩として周囲から尊敬され、大切に守られて安全に暮らしたいところです。

ところが5年程前から盛んになったICT教育の中では嫌でも応でもiPadを使ったプレゼンテーション中心のスピードの速い授業をせざるを得ない状況になりました。

 

その状況の中でひとつ気が付いたことがあります。

それは高校生がホワイトボードに書かれた情報をノートに書き写さなくなったことです。

これはかなり顕著な変化です。

殆ど誰もノートを取っていないのです。

彼らは「写メ」と言ってホワイトボード自体を写真に撮るのです。

これでノートを取ったことになるらしいです。

私の世代ではちゃんとノートに書き写さないと記憶できない、と固く信じてきました。

眼で観たことを中心に学習効果をあげられるタイプの学生をvisual learnerというそうです。

耳で聞いたことを中心に学習効果をあげられるタイプの学生をaudio learnerというそうです。

そして運動選手のように実際に手足を動かし体で覚えて学習効果をあげられるタイプの学生をkinetic learnerというそうです。

 

現代の高校生は圧倒的にvisual learnerが多くなったように見受けられます。

何しろちゃんとノートを写していなくても成績は別に悪くならないのです。

教師側が口を酸っぱくして「ちゃんとノートを取らないと学習効果はあがりませんよ。」ということ自体既に時代遅れなのかもしれません。

 

若い人の間で美味しそうな料理やデザートをスマホで写してインスタグラムに載せて共有することが流行っていますが「スマホで写している暇があったらゆっくり味わいなさい、ちゃんと味わって作った人に感謝しなさい。」という反対意見もあるようです。

しかし、この反対意見に賛成する人は実はひと世代、古いだけなのかもしれませんね。

 

これからは手間のかかる、暗記せよ、反復せよ、に加えてスピードラーニング的な方法がどんどん開発され新旧のやり方の特性を認め合って学習効果を高める方向になるのでしょう。

 

人間の能力も時代と共に進化するらしいので若い人の眼も今後、酷使に耐えるように、それなりに進化していくのかもしれません。それでも年寄りは「眼を大切にしなさいね。」と言って若い人にやさしい声を掛けてあげたいものですよね。

 

今朝は、これからの時代に必要なのは一つのやり方に拘らず、それぞれのいい所から学び合うという仏教精神ではないでしょうか、という思いでお話をしました。

 

それでは皆さん、今日も一日、お体に気をつけて、お聴聞を重ねつつ元気で過ごしましょう。

 

 

 

 

今時の授業に黒板がなくなったのですね

ホワイトボード、なるほどです

 

そしてプロジェクターからの映像、zoomの中の講座風景と同じなのですね

 

コントで 担任の先生が教室の入り口から入ると黒板消しが落ちて来る、という事もないのかな?

ホワイトボード用の黒板消しではあの味わいがないですよね

 

365人の仕事の教科書の中だったかに 生徒のいたずらをわかっていながらわざと黒板消しに当たってみせた先生の話を思い出した

 

 

今日(3/31)の365人の仕事の教科書は出町譲さん

 

 

つづき👇

 

土光が多くの人たちから応援されたように、登美も多くの人たちから愛されていた

それは陽気で明るい性格によるところが大きいように思う

「さしのぼる、朝日のごとく さわやかに もたまほしきは 心なりけり」という明治天皇の御製をこよなく愛した登美は「朝日のごとくさわやかに」をモットーに生き抜いた

 

"土光敏夫の母・土光登美は公の心を持って生き、晩年はその思いを日本の未来のためにと女子教育へと結実させ、その願いに生きた。心の底から強く発せられる願いは、一人の人間を強くするだけでなく、社会をも豊かにしてくれると私は思っている。いまの日本もまた、多くの先人たちの願いによって豊かになったのではないだろうか。願いに生きることの尊さを、私たちは知るべきであろう。"

 

 

うわぁー、筆者は富山県の人だー😲

 

 

 

 

土光敏夫氏といえば、石川島播磨重工業、東芝の社長を歴任し、経団連会長、臨時行政調査会会長としても活躍した人物ですが、行革の際、そのあまりに質素な生活にフォーカスが当たり、「メザシの土光さん」と呼ばれ、国民に支持されました。

そんな土光さんの生き方を象徴するのが、前作でも登場した、「個人は質素に、社会は豊かに」という言葉。

じつはこの言葉、土光氏の母、登美さんのものだったのです。