能登半島の余震。。

そして物資運搬中の海保機とJALの追突。。

これ以上の被害が出ないようにとずっと祈り続けています。


東日本大震災の時、私は1年の傷病期間を勝手に自分で終えて、沖縄から都内に戻ってきていました。

傷病期間は1年半あるから、あと半年は沖縄で治療を続けたほうが良いと主治医も家族も親戚も友達もみんな話していましたが押し切って都内に戻ってきました。 


治療していた1年を取り戻すために焦っていました。

今考えたら沖縄で闘病中の1年間より凝縮した1年は昨年くらい(笑)

それほど学びがある1年でした。

焦る必要はなかったなと気がつくのはそんなに遅くない、都内に戻ってから半月頃笑い泣き


出勤することさえままならない、追いつかない身体を目の当たりにし後悔しました。←ココだけの話です。


やはり悪性度が高いですとのこと。。

そんな話を聞いて、都内に戻ってきてもハーセプチンという抗がん剤を投与中でしたもやもや


結構長い期間投与し、地味な副作用に心折れそうになっていました。

復職して体もだいぶ慣れてきた頃かなと思った時。。

起きたのが東日本大震災


こんな抗癌剤なんかにやられてる場合ではないよと。。

だって私は今生きてるじゃないか気づき

生きていれば!なんだって出来るじゃないか!!

生きてるだけでとても幸せじゃないか。

とニュースを見るたび、ずっと思っていました。


東北が震源地でしたが、都内もかなり揺れました。

食べ物がまず無い、どうにもこうにも物資も滞り、わずかばかりの食材を昼間に買い占められているという悪循環が続き、仕事を終えてからではスーパーにご飯がまったくない状況に。


会社の方にお米を分けてもらい少しずつ復旧するのを待ちました。


抗がん剤をやってる間は感染症などの病気はタブーだよ。

頼むから大人しくしてくれと周りの家族や病院の先生にもたくさん反対されましたが。。

いても立ってもいられずに震災から2ヶ月後、岩手の陸前高田にお友だちと一緒にボランティアに行きました。


震災から2ヶ月。

想像以上の風景に言葉を失い。


瓦礫を片付ける自衛隊の横で

ゴミじゃない!!これは私達の大切なもの!

片付けないで!持って行かないで!と泣き叫ぶ方を目の当たりにし。。


家族を探し続けているという方とお話したり。。

私には到底受け入れられないほどの現実が起きてることが、どうしても受け入れられず。


飲み込めないまま。。整理もできない、どうすることもできないまま。。

泥で埋まってるお寺の入口を綺麗にする作業をひたすら続けました。


一度掘るだけで出てくる写真。

大事に使っていたであろう食器。

子供のおもちゃ。

えびす様の陶器。

人が生きていたあの日、その日のまま、時間が止まったまま、そのままがそこにはありました。


早く通常に戻してあげたいと思う私と、あのときのまま、時が止まってしまった方々。。


ボランティアに行くことで現地の方がどう思ったのかわからない。

逆に嫌な思いをさせてしまったのかもしれない。

何が出来たのかは全くわからないままの帰宅。


家族が帰ってこない。

見つかるかもわからない。

どこにいるのかもわからない。

これからの不安。


海に向かって立っている人々の後ろ姿が私には忘れることが出来ません。


そんな思いをしている方々が今もたくさんいると思います。

いつも手が届くところにいた家族がいなくなり、大切な大切な家族を失ってしまった方がいるのかと思うと心が痛くてたまらない。


私に出来ることは、日常を噛みしめること悲しい

ありがとうも悲しいも苦しいも受け入れること。

がむしゃらに生き続けることなのかなと思います。


日々のありがたい日常を綴り続けていくこと。

たしかに今生きているなと噛み締めて生きること。


明日からいつものようにありのまま投稿しようと思います。



↑昨日の沖縄。