5年ほど前のこと。
都内で初めて乳ガン患者の集いに参加しました
美味しいご飯を食べながらお話するような内容。
正直、顔も見たこともない、初対面が非常に苦手な私にとってはとても勇気がいること。
それでも参加しようと思えたのは
当時、主治医に言われた一言がきっかけでした。
言葉に語弊があると大変だから先に言っておくね。
ズンさんが何も考えてないとは言ってないからね
いつもすごい元気だよね。
どんな境遇でもほんと、底しれぬエネルギーがあるなと思ってね。
診察室に入ってきたらバッと明るくなるような感じ。
毎日毎日たくさんの患者さんに会うけどね、ズンさんは物凄くエネルギーを感じるんですよね。
凄いオーラですよ、元気がないときある?
きっとあなたみたいな人が
「乳がんになったんだ、それでもこんなに元気だよ」と話をしたら他の患者さんはかなり元気が出るでしょうね
患者さんが集まる時にみんなの前で話してくれないかな?
みんなの前に立つのはものすごく苦手。
そんな事できないとその時は断りました(笑)
初対面も苦手なのに?
何百人もの人々を目の前に話す。。か。。
やっぱり。。
出来ない
と思った私は、それでもみんなが元気になるかもと言われ、嬉しくて調子に乗り始めます
まずは小さな会から。。
いってみようかなぁ。。とお父ちゃんと話していました。
先生がせっかく言ってくれたのに。
やればよかったのに!!
↑お父ちゃんは目立ちたがり屋だそう。
隙あらば目立ちたいとその時は言ってました
当時1歳に満たない長女を預かっておくから行ってきてよと、乳癌の集いに参加することにしました
私は30代、40.50代が殆どでした。
最高年齢の方は70代後半くらいでした。
最年少じゃないか?
1人ずつ自己紹介。
言うことは最初から決められていて、とても助かりました。
1.わたしの名前は◯◯です。
2.◯歳のときに発症しました。
3.発症した時どう思ったか。
4.どんな治療をしたか。
5.副作用は◯◯がありました。
6.今どんな事を考えているか。
7.どういう暮らしをしているか。
という項目でした。
6.7はその人がどういう人なのかを知るためにはとても大切な情報になりました。
私の順番はちょうど真ん中。
みんなの話をしっかり聞いていました👂
冷静になると当たり前ですが発症年齢によって思うことが全く違うことに気が付きました。
発症した時に結婚してるかしてないか、子どもがいるかいないか、独身かで思うことも優先順位ももちろん人によっては全く違う。
人の数だけたくさんの思いや経験があるなと、はっと気がついたのでした。
後から冷静に考えたらそれはそうだよなと。。思いましたが、自分のことで精一杯だったんだなと再確認することが出来ました。
自分の体の心配に加え、子どもたちのことも。
家庭のことも。いろんなことを考えなければならない状況に、私は素直に独身のときに患ってよかったのかもと思ったのでした。
もちろん、そう思えるのも希望だった子どもに会うことが出来たからこそだと思います。
乳がんを患い、お付き合いしていた彼とも別れた癌友も結構います。
離婚してしまった方もいます。
発症年齢によっては今後の人生を左右するくらいの大きな問題だと思います。
病気だけでもかなりのストレスなのに。。
結婚したかったのに出来なかった
子どもが欲しかったのに。。
と葛藤をしている友達も近くで見てきました。
年齢によって。。
なんて残酷なんだ。。と自分だったらどうしてるかなと常に想像していました。
私はとてもついていて、運が良かった。
不幸中の幸いでした。
いつ死ぬかわからない恐怖
未来のことなんて全く見えなかった真っ暗闇
そんな中、当時からお父ちゃんにはとても支えてもらい、きっといなかったら直ぐに消えていなくなってしまっていたのでは?と思っています。
感謝してもし尽くせない、一言では簡単に説明ができないほど、何があっても絶対に簡単に離れてはいけない理由がここにあります。
さて、お話する順番が私に回ってきました。
書くのは好き、だけど話すのは苦手
英語みたいにたんこぶをつけたみたいな話し方。
そして更には主語が出てこなかったりする
だから、しっかりみんなのお話を聞きながらこうして話そう、あのこと話そうって頭の中では整理していたつもりなのに
私は乳ガンを発症して今思うことは、当時守るべき人がいなかったことが不幸中の幸いだったなと思っています
は???
のような表情をしていたみんなの顔が忘れられない
なんていうか。。
乳がん発症時に結婚していたり子どもがいたら心配事がたくさんあったんだろうなと思います。
怖いもの知らずというのか、元々そうなのか、はたまた若いということがよかったのか
癌くらい倒してやるわ!!という気合いだけでここまでこれました
本当に話すのが苦手なんだなということがわかり。。(笑)
これは場数を踏まねば困難だと再確認。
それでもみなさん、声をかけてくれたりして色んなお話が出来ました。
そういえば部分摘出した時に、隣に入院していた女性。
中学生の子どもともう少し小さい子供を残して県外から地元へ治療するために1人帰ってきたとお話されていました。
子供たちに余計な心配をかけてしまう、どういう思いで生活してるかなと泣きながらお話していたことを思い出します。
今と違い、当時は好きな時間に家族が面会に来れる環境、カーテンもみーんな開けていました。
他の患者さんは子どもや両親や友達がきてくれる。だけど私は家族以外に誰にもいっていないからなぁ。と寂しそうにお話してくれました。
孤独だっただろうな。
いま子ども達がいて、この状況で乳がんと言われたらそれはそれは。。大変だよな。。とあのときを思い出してはこんな気持ちだったのかなと想像ができるようになりました。
病室で他の患者さんたちとたくさんの話をしたことを今でも思い出します。
夜になるとすすり泣きが聞こえたり
みんな様々なことを思い、日頃我慢していた物が溢れて来たのだろうなと思います。
私の父も私が13歳の頃になくなりましたが、きっとあの時は子どもたちのこと、家庭のこと、母のこと、仕事のこと会社のこと、いろんなことを思い、とても無念だったのではないかなと今は想像がつきます。
どんな事を思っていたのか、どんな事を考えて闘病していたのかなと思うと胸が張り裂けそうになります。
物凄く子煩悩で、沢山の愛情をくれた父。
たったの13年間でしたが、私の心と頭の中には物凄く印象深く残っています。
今、もし生きていたならば、きっと孫たちをたくさん可愛がってくれただろうな、色んなところに沢山連れて行ってくれただろうな。
どこに住んでいても毎週遊びに来てくれただろうな。
娘たちが生まれ、おじいちゃんのお話をすることがとても増えました。
母さんのお父さんはどんな人だったの?
の質問にとても愛情深い人としか言えないのですが。。
どういうこと?と返ってくるとうまく説明できないでいます。
限られた人生、每日どう生きるか。
どう生きても最後は必ず悔いが残ると思いますが、それでも少しでもこれで良かったんだを増やすために
これからも楽しく笑顔で生きていきたいなと思います。