死ぬこと意外はかすり傷っていうけど、これほんとだよニコニコ

祖母はよくそのことを話していました。


祖母は、亡くなっている兵隊や人々のポケットから幾度となく、手榴弾を盗んでは、近くにいる人達にお話して死のうと引き金を引くのですが全て不発。


おばあちゃんはね、死神に嫌われているんだよ。

こんなにつらい思いをして、生きていくのがつらいと思っても絶対に死なせてもらえない。

戦争に加え。。若い頃から癌にも三回なっています。


雨のように降り注ぐ爆弾がおばあちゃんを避けていったわけ。

かすりもしないからね。

みんなはあんなに簡単に死ねるのに。


B29が飛んできたら直ぐ両手広げて横になるけど全く当たらなかったさぁ。


その話を笑いながら面白おかしく話すんです。


笑っていないとやっていられない人生だったのだろうなと思います。


祖母に育てられた私は、祖母とは母以上に沢山の時間をともにし、お話もたくさんしました。


祖母は親兄弟と離れ離れになり、知ってる人たちが次から次へと目の前で死んでいき、死体が重なるように倒れ、足の踏み場もないくらいだったそう。


それもそのはず。


日米合わせて約20万人が亡くなったと言われています。

数字だけでは全く想像がつきません。

県民の4人に1人が亡くなり、多くの人が犠牲となりました。


沖縄では今日、6月23日は慰霊の日。

学校も仕事もお休みです


※学校はすべて休みですが、仕事は休みじゃないところも中にはあります。


戦争経験者が慰霊の日のまえに学校まで出向き、当時のことを振り返ってお話をしてくれます。


今年は戦後78年。


当時のことを覚えている方々は80歳以上となり、だいぶ高齢となってきました。


この前、娘の学校にもお話しに来てくれたそう。

娘は目をうるうるさせながらお話を聞かせてくれました。


中には当時のことを話したくない人がほとんどだと思います。

私が1番衝撃的だった内容は祖母から聞いたあるお話でした。


日本兵も米軍兵も沖縄の人もみんな死にたくないでしょ?

だからみんな鉄の心で自分の身を守るわけ。

日本兵は沖縄の人のフリをして防空壕の中に逃げてくるわけよ。

そしたらね、顔で直ぐ日本兵だということがアメリカ兵にはわかるみたいさ。

日本兵だけを連れて行ったりするわけ。


沖縄の人は今はそうでもないと思いますが、当時はとにかく顔が濃いというのです。


言葉も違う、顔も違うでしょ。

アナタハニホンジンカ。

と聞いてアメリカ兵が連れて行きよったよ。

あい、もうこの人殺されるはずな〜と思ったさ。

眼の前で殺したりもしよったよ。

そればかりじゃないよ、日本兵に殺された沖縄の人もたくさんいたさぁ。

日本兵は私達の着物も取って奪っていったりもしたよ。

みんなでわけあって食べようねって話てたのに少ない食べ物も全部盗んでいって、なにもなくなったさー。

でもみんな同じさ、誰でも死にたくない気持ちは同じさーね。

家族もいるでしょ?

本当はこんな事したくないでしょ?


うちらと違って、本土に家族をおいてきた日本兵がたくさんいたわけよ。ポケットに写真入れてからさ、握りしめて死んだ人もみたよ。

生きて帰って会いたかったはずでしょ?

はーっさ、もう辛いことばかりさ〜。


でもあんなにつらい思いを長い間するとね、死にたくなるのも当然だなぁと思うよ。

死んだほうがマシだなって何度も思ったよ。

なんで自分だけ生きてるのかなー、なんか悪いことしたんかねーっておもいよった。

早く、みんなのところに行きたいなって思っていたよ。


いつも明るくて太陽みたい、ハツラツとして元気いっぱいの祖母。


その元気さと笑顔、たくましさや陽気さには色んなつらい過去があるからなんだなと思います。


祖母はアメリカ兵のことも日本兵のことも誰のことも決して悪くは言いませんでした。


みんな同じ。

その言葉をたくさん使いました。


逃げ惑っているとき、近くに居た女性が移動する時に泥をわざと顔に塗ったり服を汚くしていたそう。


祖母は不思議に思っていたそう。

その話を聞くと今はピンときます。

戦時中のレイプの件もあったんだなと思います。


祖母は空腹で立てなくなり、いよいよ震えが止まらなくなり、これでやっと死ねるなと思って目を閉じたときに、アメリカ兵に助けられます。


やっと私も死ねるなぁ、長かったな。。

やっと終わるんだなぁ。

と思ったら、大きなトラックに乗せられて運ばれました。


病院のようなところに連れていかれ、甘い汁を飲まされ翌日は一気に回復したそう。


暫く数日間、水を飲ませてもらったり少しずつ食べ物も食べさせてもらい、休ませてもらって回復すると、数日分の食べ物やお菓子、水分を沢山持たせてくれて開放してくれたそうなんです。


それも全て一瞬で周りの人たちに取られて終わりますが、その後も祖母は逞しく生き延び、父が生まれ、父は母と出会い私が産まれました。


ご先祖様、誰一人欠けても私は生まれてきませんでした。


祖母が生き抜いてくれたから、今、私も娘たちも産まれてこれたんだなと思います。


人生は命をつなぐリレーみたいだなと思います。


誰も悲しむことなく、安心して過ごせる日々がどうか当たり前であってほしいなと6月23日が来ると毎年思います。


当時の話を聞いていた一番初めの記憶。

私もまだまだ低学年でした。

その時は大体戦後45年ほどですかね。


40年前なんてつい最近じゃないかと思うと、ゾッとします。


第二次世界大戦は父が生まれる前の何年か前なの?と思うと、そんな遠くはない日の出来事なんだなと更にゾッとします。


こんな悲惨な話、今居るこの場所で起こったのかと思うと決して他人事ではない。


しっかりと大地を踏みしめて生きていかねばと改めて思います。


娘が平和祈念公園に行きたいと言うのですが、今日は交通規制がかかり、一人で三姉妹を連れて行くにはものすごく大変そう。

日を改めてゆっくり祖母から聞いた話をしながら行こうかなと思っています。


色んな事、考えてくれたらいいなと思います。