昨日はお父さんの命日&誕生日

私が中学校2年生にあがる新学期に亡くなってしまったので今から約26年前にもなります。


私の父は毎日作業着。

電気設計士であり、毎日忙しそうに働いていました。

父の雰囲気を例えるならば、釣りバカ日誌の西田敏行さんのような感じ。


顔はザ・たっちに似ています爆笑


私はこの写真が大好きです。
お父さんとお母さんが若いときの写真。

美女と野獣と言われそうなこの写真。(笑)
父がものすごく嬉しそうに笑っている姿と、堂々としている母の姿は非対称的で不思議な写真。
性格が表情によく出ているなぁと思いますニコニコ

この前にも書きましたが、私は日中、祖父母に主に育てられ、夕方の6時からは父と兄と過ごしていました。

母は私が幼少期のときは母は膠原病を患っており、常に寝たきりでした。

少し良くなってくると10代から続けているバレーを再開することになり、平日は週に2回、休日は試合があり、一緒に過ごせるのも少しだけ。

そのためなのか?それともインパクトがある思い出だけが残っているだけなのか。。
幼少期は祖父母と父との思い出がとても印象深く残っていますニコニコ
あちこちでかけました。

夜は母に内緒でドライブしがてらお菓子を買いに行ったり爆笑

お休みの日は主に運動公園に行き、バトミントンやボール遊び、自転車やローラースケート、スケボーを持って遠出したり車

中でも記憶新しく一番心に残っていることは、私が中学生に入ったときのことニコニコ

強豪のバレー部に入部すると決めたときに父は私に言いました。

部員が70人近くもいる中、同世代は小学校からずっとバレーをやり続けているでしょ?
試合に出るにはベンチ入りが絶対条件。
ボール拾いで終わるか、それとも試合に出て活躍したいのかと。

もちろん負けず嫌いの私は試合に出たいと言いました。
みんなのバレー歴は3.4年ほど。
そこに追いつくには学校以外でも練習すること。
人より多く練習しないと到底追いつかないと。

誰でも頑張ってる。それが当たり前の中、しかも数年前からずっとやってきている人たちの中で、どこまでやれるか、どこまで差を埋められるのか、それは全部自分のやる気と練習にかかっているとお話してくれました。

それからお休みの日や夕方は家の外で壁に向かってトスの練習をしている私を見て、仕事終わりに練習に付き合ってくれました。

でもある時、父は、腰が痛いと言い始めました。
いつも付き添ってくれていた父が珍しく1日だけ玄関にも来ませんでした。
誰しもが、ただの腰痛じゃないかと思いました。
あんなに努力家で何事にも真面目に取り組む父が横になったまま起き上がれなくなりました。

ただごとではないなと感じ始めた祖母は、救急車を呼びました。

幼い頃から父は腎臓や肝臓が弱かったそう。
幼少期は相撲をさせていた時期がある、体を強くしようと思っていたという祖父。
そんなこと初めて聞きました。

救急車で運ばれてから父は家に戻ることはありませんでした。

数ヶ月で他界した父は、あまりにも若くで亡くなってしまったせいもあるのか。。
息を引き取るときは本人もパニックでした。

酸素マスクを取って起き上がろうとするのです。
そのくらい体力があったのかもしれません。
とても苦しそうなその時の姿は今でも思い出せます。

父がなくなる前、バレーの初めての試合がありました。
見事にベンチ入りを果たし、それだけでも嬉しくてルンルンで病院まで走って報告に行きました。

練習当日はピンチサーバーとして、8点決めたよ、それでねそれでねとその時の様子を夢中で父に報告しました。

静かに頷きながら聞いていた父は見たかったなぁと言いました。

父はものすごく嬉しそうにニコニコしていてよく頑張ったねと私の話を最後まで聞いてくれました。

しかし、日に日に元気がなくなります。
ときには目が膨れ上がって充血しているときもありました。

病室に入るとすぐに気が付きました。

いつも常に笑顔で声を荒らげて怒ったことなんてこれまでに一度もない父。

あ、泣いたんだなとすぐにわかりました。
私は父のその姿を見てもしかするととても大変な病気になってしまったのかもしれない。と悟ります。

当時はお医者さんも本人に病気の告知をしなかった時代だったんだと思います。

家族だけに告げ、本人にいうかどうかの選択は家族に任せるのだと思います。

今考えるとなんて残酷なんだ。。と思いますが、時代なのかなと思います。

私なら自分の病気を知りたいし、いつまで生きられるのか聞きたい、わかるのならば教えてもらって、その間に食べたい物や行きたい場所、やりたかったことを全力でやりたいと思います。

家に帰っても母の目が赤い、充血してる、あんなに明るい祖母も口数が少なく笑っていない気がしました。

みんな何かを隠してる。
なんで教えてくれないのか不思議でたまりませんでした。
そんな顔で病室に入ると父も悲しくなるでしょう。
私はいつも楽しい話題を話すようにしました。

毎日部活が終わったら走って病院に向かいます。

それが毎日の1日の流れになっていました。
ある日、部活の最中に校内放送で職員室に呼び出されます。

お父さんになにかあったかもしれない。
そう思いました。

これでもかと急いで駆けつけると父は危篤。

ここ最近はお腹にも水がたまっていて、食事もあまり進まない様子でした。

もうすぐ父の誕生日なのに。
一緒にケーキ食べる約束もしたのに。
誕生日プレゼントも用意していました。

父はお話ができる状態ではありませんでした。
心電図がピーっとなります。
すると直ぐにお医者さんがとんできて胸を軽く叩くのです。
するとまた呼吸をし始めます。
数回繰り返したあと、母と祖母は
もう…大丈夫ですと言いました。

残される側のエゴなんだと思います、少しでも長く生きてほしい。

ずっと手を握りしめていましたがあの感覚も不思議とずっと手に残っています。
ゴツゴツした分厚い大きい手だったのに。気がつけばものすごく痩せていて私とでの大きさも変わらない。どんどん力がなくなっていくこと。

少しずつ冷たくなっていくような気もした。
びくともしないその手は、父ではないような気がしました。

父がなくなってから数年間。

父は、どこかに出張かなとおもうほどに、今でも玄関の鍵を開けて帰ってきそうなのです。

ただいま〜!!って、手土産を持ったニコニコな父が帰ってくるはず。

夢であってほしい。
一度でいいから会わせて欲しいと何度も何度も思っていました。

ずっとその日を待ちましたが、本当に帰ってこないんだな。。と思い始めた頃、私は関東に出ることにしました。

どこに行っても、何をしていてもどうやっても強烈な寂しさは全く払拭できない。
父が亡くなり、もう4.5年も経過しているのに心にポッカリと空いた大きな穴。
全く埋めることができないんです。

どうしょうもない寂しさが家族をまるっと包んでいました。

私が海を渡り、遠くに行ってしまうことを祖父母も母もとても寂しがりました。

家の電気がつかなくなったみたい。太陽みたいな人から遠くに行くさぁ。。と祖母はとても寂しがりました。

みんなそれぞれの喪失感、そして寂しさを必死になって向かい合ってきました。

父の死で私はいろんなことを頑張ることもできました。
たくさんのことも学びました。

昨夜、長女が言いました。
お母さん、おじいちゃんが亡くなったとき寂しかったよねー?今、お父さんが突然いなくなるのと一緒なことでしょ?どうやって3人で生きてきたの?寂しくて死にそうだったよね?

その言葉を聞いて、当時のいろんなことを思い出し、言葉に詰まりました。

そうだね、寂しさを超えてとても苦しかったかも。でも、もう私お母さんだからニコニコ
おじいちゃんがお母さんを大切に守ってくれたみたいに、今度はお父さんとお母さんが子どもたちを守るんだよニコニコさびしくなんかないさ。見てるんじゃない?おじいちゃん。

そう話しました。

死んじゃうの嫌だショボーンいなくなるの嫌だな、みんな長生きしてほしい。。お母さん長生きして、絶対死なないで!ショボーンプンプン

だから、毎日もうこれが最後かなと思いながら大事に過ごすんだよ。もうこの時間は戻ってこないって思いながら。友達との時間、家族との時間を大事にね。精一杯やるんだよひらめき

戻りたくて戻れないから?もうおじいちゃんと会いたくても会えないから?

そうそう、戻ってきて!あのときそうすればよかった!時間よー、戻れー!って思わないように毎日全力で一生懸命生きるんだよ指差し

そうか!毎日頑張っていたら心にたくさんしまえるねおねがい
と話していました。

父が見られなかった今日を必死に生きる、それだけは26年間やり続けてきたことかなと思います。

父の子供に生まれてきてよかったなとずっと思っています。

今日もニコニコ頑張ろー!!爆笑