という祖母。
生きてきた中で何度も何度も苦しい場面にぶつかるのに、死神は私を死なせてくれないからとたまに話してくれました。
1度目は戦時中。
(※何度も書いています。)
目の前で大勢の人が亡くなっていき、隣のおばさんたちも知り合いも一緒に逃げていた人達もみんなみんな亡くなって、祖母はやがて1人になりました。
わずかに残された人たちは流れ弾に当たって死んでしまい、飢えで亡くなったり。。殺されてしまったり。。
それでも祖母だけは生きていました。
辛くてつらくて仕方がない。
毎日こんなに地獄のような日々を過ごすならいっそのこと、死んでしまって楽になりたいと思うようになります。
みんなのところに行きたい。
そんなことを毎時間毎分考えていたそうです。
本当に想像絶する状況です。
B29だ!!きっと真下にいたら死ねるぞと、空から雨のように降ってくる弾に当たろうと両手を広げて横になりました。
弾は祖母を避けて落ち、不思議なことに1つも当たりもかすりもしなかったそう。
これでも死ねないかと、死んでいる人たちのポケットから何個か手榴弾を取り、自決をしようと試みますがすべて不発。
ならばと浜辺の目立つところで米兵が来るのを待って殺してもらおうと思い、待ちました。
すると、大きなトラックに載せられ、米兵の病院みたいなところに連れて行かれ、医療行為をしてもらい助けてもらったと。
なんで助けるんだよ!!とその時は思ったんだよと。
その後は持たせてくれたアメリカのお菓子や缶詰、食べ物で命をつなぐことができたんだと話していました。
あんなに苦しいのに死なせてもらえなかったけれど、今となっては感謝をしてるんだとよく話してくれました。
私には想像絶する過酷な話ばかりですが、祖母はいつも笑いながら面白おかしく伝えるんです。
笑ってなきゃやってられないのかもしれないですね。
そんな中、祖母には再び耐え難いことが起きました。
子供の死(私の父)です。
当時は家族みんながつらくて仕方がない。
喪失感や絶望の時間がたんたんと流れていき、誰にもどうしようもない日々が流れていきました。
流石に毎日笑っていた祖母も私も苦しくて仕方がありませんでした。
家族を失うこと、誰かを失うことは残された側も早く旅立った父も(四十代前半で他界)無念だったのではないかな。
寂しくて仕方がありませんでした。
それでも乗り越えるしかありません。
ただただ過ぎていく時間を共にし、やっとで少しずつ笑顔が戻ってきました。
骨肉腫や乳がんを経験し、祖父の死を看取り、祖母の人生は大変なことばかりではなかったかな?と思います。
孫(私)が遺伝性の乳がんになったとき。
それはそれは複雑な表情で一瞬口をつむんだ顔が忘れられません。
乳がん闘病中は全力で毎日一緒にいてくれた祖母。
あのエネルギーとオーラはおばあちゃんにしかない経験から生まれてきたものだと思っています。
いつも、『同じ時間を生きるなら泣く時間より笑ってる時間が多い方がいい』と話していました。
その言葉は私の体に深く残っていて、苦しいとき、何かの節目のときには必ず思い出します。
その度に近くにいてくれてるのかなと感じます。
これをみたらきっと祖母は大爆笑するだろうな
え?どこかで見たことある!デジャブ??と思った写真。
若い頃のおばあちゃんのフォルムに私が似てきているそして小学生の時の私に似てきた娘。
同じアングルの写真がどこかにあったような気がする
この写真を見て、またおばあちゃんを思い出しました
先祖代々悪いことはできないよ、親から子に子から孫に必ず降り掛かってくるから。真っ当に生きないとね
とはなしていたおばあちゃん。
私は今日も全力で真摯に生きたいと思います!!
日々、修行ですな、行ってきます