通っていた学校の校庭に大きなガジュマルがある🌳
今でも立派にあのときと変わらず堂々と両手を広げて立っている。
今でもそのガジュマルの木を見ると祖母が腕が痛いなぁと言っていたことを思い出す。
祖母の1日。
それはそれはとてもハードなものでした。
朝は5時台に祖父と父が経営していた事務所の掃き掃除と拭き掃除、6時には家に戻ってきて家族みんなの朝ご飯を作り
みんなを会社や学校に見送って家の掃除を始め、買い物をし、帰宅したらお風呂で汗を流し、前夜の残り物を昼に食べる
それから少しだけ休んで、2回目の洗濯物を干し、アイロンを始め、3時には夕飯を作りおわる。
私はいつも祖母がアイロンをしているときに帰宅
字を書く練習や日記を書いたり自主学習をしている祖母の目の前で私もお絵描きしたりをする
野球や剣道にでかける兄を見送り、みんなの帰りを二人で待っている。
習い事のオンパレードだった私は祖母に付き添ってもらって公文や習字に行き、帰り道に校庭のガジュマルの木に登ったり、近くにある公園のブランコをしたり少し遊ばせてもらうのである。
日に日に痛くなる腕の痛み。
腕を気にするようになった祖母。
私を持ち上げるとき、腕をひねったのかなぁと話を毎日のようにしていた。
暫くして遂に腫れてきた腕。
祖母が病院へ行った。
どうやらただ事ではない様子。
どうだったの?と話す私に祖母はばあちゃんロボットになるはず
と笑っていた。
腕の骨を切って鉄を入れるらしい。
入院するの?
すぐ帰ってくるさ、心配するなという。
大きな病院に入院したばあちゃんのお見舞い。
そこではいつも元気なおばあちゃんではなく、眉間にしわを寄せて横になっていた。
面白くなさそうな顔をしている。
ばあちゃん。
と声をかけたらすぐに笑ってくれた。
記憶が確かならば、四人部屋だったばあちゃんは、直ぐに私を周りに紹介してくれた。
足が片方無い人がばあちゃんの隣りにいた。
私は足よ、あなたは足があるから大丈夫、どこにでも行けるよ。って言うからさ、ばあちゃん手で良かったなぁと思ってるところだったさ
まだ幼い私にはすべてが衝撃的だった。
戦争のときと比べたらこんなのかすり傷だよ。
いろんなところから会話が飛び交った。
生きていればなんとでもなるさぁ。って話したところだったよ〜。
家に帰ったらばあちゃんのお手伝いしないと
ばあちゃんは退院してからも通院したり薬を飲んだりと今までとはうまく動かない腕にものすごく戸惑っていた。
1番困ったのは荷物があまり持てないこと。
高いところに荷物が置けない。
そして、料理をするときに片腕だけではキレイに切れないこと。
着替えるときも腕を通すときも、ボタンを閉めるときなど悪戦苦闘していた。
素早い動きもあっという間に鈍くなり、それから私はガジュマルの木に乗せてもらえなくなった。
自分の腕じゃないみたいさ、言うこと聞かないよ、この腕は。
ワジワジーするさぁ(イライラする)
と苛立ちながらも以前と変わらずに家のことをこなしている。
だいぶ慣れた頃に今度は乳がんが見つかった。
骨肉腫とは違い、割と早めに見つかった。
おばあちゃん今度はおっぱいがなくならないかな?と笑っていた。
死神にまた嫌われてるさぁ。と大笑いしていた。