なぜ、私は、いまだに時折、「会の教え」に自分の行動が制限されそうになったり、「今の自分は大丈夫なのか?」と、不安になることがあるのか。
 
なぜ母は、「会の教え」に真逆なことをしながら、かつ、自分は病気であると言いながら、自分のしていることに、不安も疑問もないのか。
 
 
私は、母に、
「自分を病気、病気と言うけれど、昔、集会で教わっていた『大自然の教え』とやらに真逆のことしてるでしょ?
逆らうから病気になるって、私に言ってたでしょ?
だったら、自分の行動を変えれば治るんじゃないの?」
と、何度か尋ねてしまったことがある。
が、毎度、フンッ!と鼻で笑われ、そんなの病気と関係ないわね!と言われた。
 
 
最初は、母の強がりなのか、内心を隠しているのか、と思ったが、心底そう思っているふうだった。
吹っ切れ方が、すごい。
 
 
「人には、『大自然の教えに逆らうと病気になる』と言っておいて、自分だけそこから離れて、それは、ちょっとずるくない?
お母さんが言いまわった人たちは、今も信じているかもしれないよ?」
とまで言ってみたら、
「そんなこと、仕方ないわね!私もそう言われただけだから!」
と、怒られた。
 
 
 
私なりに考察するに、
 
「教え」を教えられたとき、
 
私は、
幼かった。
私に「教え」を教えた人が、私にとって、母というかけがえのない人だった。
生きるためにその人に依存している年齢だった。
社会経験がまだ乏しいなか、強烈な体験だった。
毎日その人(母)と一緒に過ごし、毎日、ことあるごとに言われ続けていた。
 
対して、
 
母は、
すでに大人だった。
「教え」を教えてくれた人は、先生だけれど、生きるために依存している相手ではなく(一時的には依存したのかもしれないが)、むしろ、先生へお金を支払っている側だった。
社会経験が、多くはなかったであろうけれど、私よりは多かった。
家では、「言われる立場」でなく、「言う立場」であった。
 
といった違いがある。
だいぶ違う。
 
 
母のあの吹っ切れ方は、潜在意識に残っていなさそうにみえる(私にわからないだけかもしれない)。
私は、普段忘れているが、時折ふいに思い出して、かつ、それが不安を連れてくるということは、まだ潜在意識のどこかに残っているのだろう。
 
 
「○○すると、△△になる。」
幼い日の親の言葉、もしや、幼くはなくても、親の言葉とは、かくも力を持つものなのかと思うと、自身が親になっている今、自分の言葉や言い方に十分気をつけよう、と、切実に思う。
なんらかの因果が、仮に本当だとしても、それは、子どもたちひとりひとりが世の中で体験して、自分自身で学んでいくことなのだから。
 
 
 
かつて私は、卒業研究の際に、「洗脳」について学ぶ機会があり、本を読んでいる。
凄まじい内容で、怖くなってしまった。
けれど、当時は、自分も、ほんの軽症であれ、その状況にあると感じることが、まったくできなかった。
 
 
母本人ですらすっかり忘れている
「母の教え」から、
もっと自分を自由にしてあげたい。
自由にしてあげよう。
そう思った。