「3番目の愛」の後編を、いつまで待っても、書く気が起きません。

 

中途半端になったなぁ、と思うのですが、記憶の映像がわきあがってきても、書く気が、しない。

言葉に、ならない。

 

中途半端になっていることが嫌で、なぜ書けないのかなぁ、と、自分でも困り、なんとか言葉を綴っていこうとすると、今度は、

 

 

後編の前編、後編の中編、後編の後編の前編、後編の後編の中編、後編の後編の後編の前編

・・・、

 

になりそうな勢い。

 

 

これは、現在進行形だから書けないのだ、と、知りました。

 

 

 

 

「家族は、ラスボス」と、以前、ある方がおっしゃったのを思い出しますが、うーむ。

 

ラスボスが棲む、私の、こころの、森。

 

 

 

 

森のそばにいるとき、食うか食われるかの生命の営みの場でもある森が、時(とき)の中で、かくも見事な調和を見せてくれることに、圧倒された気持ちになることがあります。

 

地上では、時間がかかること、時間をかけることは、決して悪いことではないのだ、時(とき)は必要なのだ、と、励まされます。

 

 

 

 

 

ラスボスも「澄む」ほどの調和を、私のこころの森は、きっと、望んでいます。