アドラー心理学ELM勇気づけトレーナー 本橋悦子です。
これって現象的になんて言うんでしょうねぇ。
さて、最近ニュース番組や情報番組で必ず取り上げられている
『日大アメフト部悪質タックル』
を見て感じていること。
小学校で道徳の授業が必須となりました。
私は、道徳が評価の対象になること自体疑問に思っています。
数値(小学校では、◎、〇、△)での評価ではなく、記述による評価のようですが、頭のいい子はどんな態度ををすればいいのか、どんな意見を言えばいい評価を得られるのかを知っているので、なんだか微妙ですよね…
そこで、今小学校の道徳の教科書に収められているお話で
『星野くんの二塁打』
というお話をご存知でしょうか?
概要はこんなお話です。
『バッターボックスに立った星野くんに、監督が出したのはバントのサイン。しかし、星野くんの得意なボールが来たので、打てそうな予感がして反射的にバットを振り、打球は伸びて二塁打に。この一打がチームを勝利に導き、選手権大会出場を決めた。だが翌日、監督は選手を集めて重々しい口調で語り始める。チームの作戦として決めたことは絶対に守ってほしいという監督と選手間の約束を持ち出し、みんなの前で星野くんの行動を咎める。「いくら結果が良かったからといって、約束を破ったことには変わりはないんだ」「犠牲の精神のわからない人間は社会へ出たって社会をよくすることなんか、とてもできないんだよ。」などと語り、星野くんの大会出場禁止を告げるシーンが展開する。(抜粋)』
このお話は、「約束や規則の尊重」を教えるために、
「みんなで社会生活を送る上で大切なことは、規則を守ることである。そこで、自分の利害にとらわれるのではなく、正しい判断をして、きまりを守ろうとする心を育てていきたい。」ということでこのお話を道徳の教科書に載せたようです。
この題材を使って小学生に道徳を教えようとするとき、先生たちの力量が問われてしまいます。
導き方を間違えると、
「上長者の言うことは絶対なんだ」
「権力者は絶対なんだ」
「自分の判断で思い通りにしてはいけないんだ」
と捉えかねないです。
日大の監督が発した言葉と選手の理解との間に乖離があると言われていますが、アメフト部だった選手が言った
「監督がカラスは白いといえばカラスは白いんです。」
という言葉が象徴しているように、監督は絶対的な存在であったのがわかります。
児童に「約束や規則の尊重」を教えるのに、この題材を使うと、道徳で
「指示待ち人間」
を作ってしまうのではないかと。
このお話を読んで、野球やサッカーをしている少年少女たちは、監督やコーチの指示を忠実に守ろうとして、そんな子供たちが大きくなったときに今回の事件のように指示があれば、道徳や倫理を吹っ飛ばして、無防備な選手に思い切りタックルをして、「壊す」という指示を履行しようとするのでは…(極端な例ですけど)と思ってしまうのです。
とっても頭のいい人たちが子どもたちのためにたくさん話し合って未来の日本を担っていく人材を育てようとあれこれ思考錯誤しているはずなのに、英語の教科化といい、道徳の教科化といい、なんか日本の教育は迷走しているように見える…
保護者も溢れてる情報に惑わされて、流されると子どもたちも戸惑って、流されていってしまいます。
先日、小学校入学前に平仮名の読み書きができるできないで教育格差があるという統計が出たとテレビで言われてましたが、それを知った保護者はきっと文字に興味を持たない3,4,5歳児に一生懸命ひらがなを教えようとする親もいると思います。
あまり親が小学校入学前に勉強させることに一生懸命になると、小学校入学前から
「べんきょう が きらい」
という幼児が増えてきます。
小学校に入ってからお勉強が始まるのに…
私が以前塾経営をしていたとき、そういう幼児に何人もあいました。
(子ども向けに塾経営をしていて、そう言わせてしまう環境を作ったのは私でもあるんですが…)
そうすると子どもの自我が目覚め始める時期になると、親や学校で不適切な行動が増えてきます。
大事なことってなんですかねぇ…
と今回の「悪質タックル」のニュースを見て感じたことでした。