こんにちは、Katiaです。

 

正月明けに、旅行に行こうと思っています。

行先は、長年の憧れの国、ポルトガル!

 

いまどきは何でもネットで情報を取れるとはいえ、一応、ガイドブックも必要かな、と思い本屋へ行ってみました。

 

旅行前にガイドブックを見に行くと、たまに、こっちの本のこの情報だけ欲しいけど、あっちの本のあの情報も欲しい・・・ということで、

とりあえず2冊買ってしまったりします。

 

しかし、結局、荷物を増やすだけで、旅先で持ち歩いてたのは1冊だけということになりかねないので、

過去の反省も踏まえ、とりあえず、一番役立ちそうなのを1冊だけ買おうと心に決めていました。

 

本屋に入ると旅行ガイドコーナーに直行し、さっそく、一番沢山でている出版社の旅行ガイドの中から、

「ポルトガル、ポルトガル・・・」と探します。

ところが、見当たらず・・・。

 

色々な出版社のものがあるので、他のシリーズでいいか、と思い、再び探します。

しかし、このシリーズにもポルトガルはないぞ。

 

結局、その書店には、4、5種類の旅行ガイドがあったのにもかかわらず、ポルトガルはどこにもありませんでした。

 

あ、そういうことか!!

 

「ローマとイタリア」、「バルセロナとスペイン」、「ロンドンとイギリス」みたいに、

人気都市の名前が先に出てる場合もあります。

 

そこで、今度は、「リスボン、リスボン・・・もしかして、ポルト?」と探してみましたが、、やはり、1冊もありませんでした。

 

えええ、ポルトガルって、そんなマイナーなの?

クロアチアの方がマイナーな気がするのに!

 

いやいや、ポルトガル、人気ありすぎて、全部売り切れてしまったと考えることもできるね。

 

そんなわけで、またもっと大きな書店に行ってみようと一旦あきらめました。

 

 

さて、今回の旅行は、憧れのポルトガルに行くという夢をかなえるとともに、

もう一つ、長年の夢をかなえる旅なのです。

 

それは、サンチアゴ・デ・コンポステーラを訪れること。

 

あれ?サンチアゴ・デ・コンポステーラって、スペインでしょ?

そうです、北スペインの都市です。

 

しかし、地図をみると、スペインのバルセロナや、マドリッドと言った大都市からよりも、

ポルトガルのポルトからの距離の方が圧倒的に近いのです。

 

大学生の時に、スペインに短期留学していた姉に、サンチアゴに行ったときのことを聞いたら、

「うーん、遠かった気がする。バスでずーっと行って、途中、道が悪くて、お尻痛くなった・・・」みたいな答えが。

 

ちなみに姉が滞在していたのは、マドリッドからバスで3時間ぐらいの地方都市で、地図で見ると、マドリッドより左上の方。

サンチアゴは、さらに、地図上、そこから左上にずーっと行く感じ。(なんていい加減な説明!)

 

そんなわけで、今回はポルトガルのポルトから北スペインのサンチアゴ・デ・コンポステーラに行ってみようと思います。

 

サンチアゴ・デ・コンポステーラは、キリスト教三大聖地のひとつで、

三つの巡礼路のうちの一つである、サンチアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の終点の都市です。

 

この巡礼路は、フランスの各地からピレネー山脈を経由し、スペイン北部をとおる道で、約800キロメートル(!)ぐらいの道程があります。

 

今、キリスト教徒じゃない日本人でも、この巡礼の道を歩くのが、ひそかに人気のようです。

これだけの距離を歩きとおしたら、特別に信仰のない人でも、人生変わりそうですよね。

 

さて、前置きが長くなってしまいましたが、何故、私が、サンチアゴ・デ・コンポステーラに行きたいと思ったのか?

 

それは、パウロ・コエーリョの『星の巡礼』を読んだのが、きっかけです。

 

パウロ・コエーリョはブラジルの作家で、私の大好きな小説「アルケミスト」の作者です。

昔、「アルケミスト」を読んで、あまりにも感動して、彼の他の作品も読んでみたいと思い手にとったのが、「星の巡礼」でした。

 

「星の巡礼」はパウロ・コエーリョの処女作で、彼の体験が書かれた自伝的な作品でした。

 

初めて読んだとき、あらゆる意味で、あまりに衝撃的でしたが、夢中になって一気に読んだ記憶があります。

私の中では、まさにリアル「アルケミスト」でした。

 

ただその時は、盲信できる宗教がある人はなんて強いんだ、とか、信仰心ってすごい、という驚きの方が強かったかもしれません。

 

ところが、今となってはあんな感動したのに、記憶がかなりあいまいになっています。

 

そして、この本がきっかけで、サンチアゴ・デ・コンポステーラへ行きたいという夢を持ち、

それが、十何年越しで実現することになったので、

せっかくだから再読してみようと思い立ち、再び読むにいたりました。

 

「アルケミスト」と違い、文章はほとんど記憶に残っていなかったのですが、

改めて読んでみると、「アルケミスト」と同じくらい、名言が心に刺さります。

 

パウロはキリスト教神秘主義の秘密結社RAM教団の一員です。

 

この教団の最後の試験に落第し(この試験に受かると”魔法使い”になれる!)、

自分の聖なる剣を手に入れることができず、その剣を見つけるため、

ガイドと共に、サンチアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路を歩きます。

 

いきなり、”教団”とか”魔法使い”とかいう場面から始まるので、すでにそこで拒絶反応を示す読者も多いようです。

読み進めると、巡礼路ので行われる「実習」の数々や、「天使」とか、「悪魔」とか、かなりオカルトチックです。

 

しかし、それらは、彼の信仰心ゆえのことなので、私にはどうでもよくて、私は全く気になりませんでした。

 

そこじゃなくて、そういったものを抜きにして、この本は、より良い人生を送るための、人生における真理を語っているのだと思います。

 

この本の中では、「良き戦い」という表現が使われています。

 

「われわれは夢を見ることを決してやめてはならない。夢はたましいに栄養を与える。それはちょうど、食事が体に栄養を与えるのと同じだ。われわれは人生で何度となく、自分の愛がうちくだかれ、失望する時を体験する。しかしわれわれは夢を見続けなければならない。(P67)

 

良き戦いとは、われわれの心が、そう命じるがためにわれわれが戦う戦いのことだ。英雄たちの時代、つまり、よろいを着た騎士の時代には、これは簡単なことだった。征服をし、多くのことを行うための土地があった。しかし、今日では、世界はすっかり変わってしまった。そして良き戦いは戦場から、われわれ自身の内へと移行したのだ。 (P67~68)

 

良き戦いとは、夢のために戦われる戦いのことだ。われわれが若く、夢が初めて内側からはじけ出す時には、われわれはこの上なく勇気に満ちている。しかし、まだ、どう戦えばよいのか、その方法を学んでいない。努力に努力を重ねて、われわれは戦いの方法を学ぶが、その頃には、すでに戦いにおもむく勇気を失ってしまう。そこでわれわれは自らに背き、自分の心の中で戦い始める。つまり、われわれは自分自身の最悪の敵になるのだ。そして、自分の夢は子供じみていて、難しすぎて実現できない、人生を十分に知らないせいだと言い聞かせる。良き戦いを戦うのを恐れて、自分の夢を殺してしまうのだ。(P68)

そして、夢の死による4つの症状をあげています。

 

まず、1つ目は、「時間が足りないという症状」

何もしない人たちはいつも疲れていて、やらなければならないほんのわずかな仕事にも、注意を向けようともしない。彼らは絶え間なく、一日は短かすぎると文句を言っている。本当はかれらは良き戦いを戦うのを怖がっているのだ

 

2番目の症状は、「人生を偉大な冒険としてみたくないがために、人生にほとんど何も望まない方が、賢くて公正で正しいと思い始める」

こと。

 

3番目の症状は、「安逸」。

最後の症状は安逸である。人生は日曜日の午後になる。われわれは何一つ偉大なことを望まず、われわれが与えたいと思う以上のものを何も要求しなくなる。このようになると、われわれは自分が成熟したのだと思い込む。そして若い頃の想いを忘れ去り、個人的で職業的な業績を追い求める。同じ年頃の人たちが、人生からまだあれを欲しいこれを欲しいと言っているのを聞くとびっくりする。しかし、実は、心の奥底で、自分は自分の夢のために戦うことをあきらめたのだ、つまり、良き戦いを戦うのを拒否したのだ、とわれわれは知っている。

そして、夢が死んで3番目の症状である安逸を見出すと、死んだ夢が自分の中で腐り始め、病気やノイローゼになり、

さらに、死んで腐敗した夢は、自分を呼吸困難におちいらせ、日曜日の午後の平和から自由になるため死を求め始める・・・。

 

私は、この本のメッセージは、人は、自分が持つ夢に気づいて、夢のために行動すべきであり、成功も、失敗も重要ではなく、夢に向かって行動し続けることこそが大切である、ということだと解釈しました。

そして、自分の中に夢を見つけると道ができ、夢に導かれ歩き続けていると、”道に歩かされている”ことに気づき、行き着くべきところに行きつけるのだと思いました。

 

私にも若い頃は夢があったのかもしれません。

でも、夢は夢と、最初から実現しようとも思っていなかったと思います。

そして、夢を実現しない言い訳ばかり考えていました。

良き戦いを放棄して、自分の中には、死んで腐敗していた夢の残骸だらけ。

 

いま、もう一度、良き戦いを戦ってみようという気力が生まれました。

今度こそ、歩き続けたいと思います。

 

最後に、本を読み終えたところで、私は自分の大いなる記憶違いに気づきました。

 

昔、この本を読んだ際、最後、パウロが子羊に導かれて入って行った教会が、

サンチアゴ・デ・コンポステーラのカテドラルだと、何故か勝手に思い込んでいました。

 

そして、旅行でカテドラルに行った際は、実際に中に入って、その場面を妄想で再現してみようと楽しみにしていました。

 

ところが、再読したら、あれは、サンチアゴ・デ・コンポステーラよりももっと手前の街の教会でした。

 

しかも、この本の中では、巡礼路を歩く過程は重要だけど、

サンチアゴ・デ・コンポステーラという街自体に関しては、数行でさらっと触れられていたことにも気づき、

苦笑ってしまいました。

 

人の記憶とは、なんともいい加減なものですね。