*あくまでも個人の戯言です(笑)。

今年1月から映画館で上映されている、ガンダムSEED FREEDOMを観に行ってきました。

ガンダムSEED DESTINY(テレビ放送2004年〜2005年)の続編という扱いですが、テレビ放送で評判の良くなかった部分を見事にリカバリーし、映画の尺に合わせて話をまとめた、素晴らしい作品だと個人的には思いました。

ネタ的には、いろんなロボットアニメのオマージュが取り入れられていて、昭和生まれのオッサンほど楽しめたのではないかと思います(笑)。



さて、テレビ版のガンダムSEED DESTINYと劇場版のガンダムSEED FREEDOMでは、「デスティニープラン」という社会計画が出てきます。端的に言うと、全人類の遺伝子を調べて、各人はその遺伝子解析結果から判断される適性職業に割り振られるというもので、作品内ではその割り振りが強制力を持ち、反対する者は粛清するという「絶対悪」として描かれています。

作中では「絶対悪」にする為に、職業選択などに強制力を伴う、反対者は抹殺するなど「やりすぎ感」を演出していますが、「遺伝子を解析し、適性のある方向性に誘導する」という考え方は悪いことなのか?と自分は思います。上記のWikipediaの記事によれば、作品の制作に関わった関係者の考えとして、次のように書かれています。



シリーズ構成を務めた両澤千晶は、製作時の世情を見て、「挫折や失敗もなく、効率よく最短ルートで生きる手段」を人々が求めるかのように向かっていると考え、それを実現してしまう存在としてデスティニープランを構想したと語っている。

設定製作を担当した森田繁はデスティニープランとは、遺伝子を調査すれば職業適性でも何でもわかる、その適正を最優先させれば不満も生じない、そういう社会を作ろうという計画である。上から強制するのでは無くて、人々が自主的に賛同する形で実施するのが、デュランダルの真の狙いであり、彼はそうなるように世界を操ろうとしていたと説明している。



この記事の原典は2005年ですが、それほど突飛な考え方でもなく、むしろ現代社会では受容されるのではないかという気もします。
適性の低いことを一生懸命努力するより、適性の高いことに取り組んだ方が成果が出せる確率が高いのは明らかであり、それが本人の幸福にも社会の利益にも繋がる、というのは遺伝子解析の有無に関わらず、いつの世にも言えることのように思います。
その上で、遺伝子の解析技術が進歩し、それなりの確度で「それぞれの人間の職業適性」を提案できる、その提案を受け入れるか否かは本人の意思に任せる、くらいのシステムだったらそんなに悪くないのでは?と自分は考えます。

いずれにせよ、遺伝子解析技術の進歩で、現在はまだ明確に見えていない「脳の機能の遺伝的特徴」が「見える」ようになるのも、そう遠くない未来だと思います。
望む望まないに関わらず、遺伝子がヒトのいろいろな能力を先天的に規定している、ということを認めざるをえない時がくるし、それが必ずしも人を不幸にするものではないのでは、という気もします。