(1)私は独り身でいるのが合っている
私が結婚したのが平成10年で離婚したのが平成16年。もう21年も前のことになる。それ以来浮いた話は一切なく、このまま独り身で行くのだろうと覚悟は決めている。では「結婚する努力」をしたことがあるのかと言えば答えは「NO」。周りにも結婚したいといったことはないし、そもそも望んでいない。その位私にとって結婚生活というのは窮屈なものだった。
多分、私は独り身でいるのが合っている。それは結婚している時に思い知った。
独り身というのは簡単に言えば気楽だから良い。逆に言えば結婚生活というのはそれなりに気を遣う。何事をするにも奥さんの顔色を窺ったりお伺いを立てる等、そこまでしなくても良いとは思うが、実際にはそうもいかない。
私にとっては結婚生活というのは「らしくない」状態だった。だから今のままで良い。
(2)結婚生活が上手くいったというのは結果論だが
それでも離婚したくて結婚する人はいないだろう。そして結婚というのは終わりではなく、新しい生活の始まりである事や共同作業である事はそれなりに理解はしていることと思う。
それで愛情が云々というが、おそらく「永遠の愛」というのは実際にあるのだと思う。結婚というのはまさにそれで、最初はパッとしなくても一緒に暮らしていく中で育んでいくものなのだろう。しかしそれは最初から与えられるものでは無く、お互いぶつかりながらもともに作り上げていくものだと思う。
しかし最初はそうもいかない。何とか自分を保ちながら相手が自分に合わせるように考える。何かで見たが「女は男に変わってほしいと思うが男は変わらない。男は女に変わらないでほしいと思うが女は変わる」というのがあったが、まさにそれである。
いずれにしても結婚生活が上手くいったというのは結果論であると思うが、今も昔もうまくいった人はそれなりの努力をしてきたし、そのハードルは高い低いに関わらず、乗り越えられるものであったようだ。
(3)浪費という「嫌がらせ」
また、経済的な問題も上げられている。
結婚生活にはお金は必要だ。どんな綺麗ごとを言っても貧乏にはなりたくない、それは当たり前だ。
しかしいくら金があっても「浪費」というものがある。それはその人の個人的な価値観だから人によっては良いものも自分には浪費に見えるし、人によっては浪費なものも自分にとってはかけがえのないものであるという事も往々にしてあるだろう。
例えば私だが、特に温泉が好きなわけではない。誘われれば行かなくも無いが、行かなくても別に困らない。そんな事に時間を費やすのなら趣味の卓球の練習に行きたいと思う。つまり温泉に行くというのは誰であっても私は我慢して付き合っているに過ぎないし、私にとっては「時間と金の浪費」なのだ。
今後、時間に余裕が出来ればそういう事に時間を費やすことも浪費にはならないかもしれないが、今の時点では浪費であり、付き合うのも実は苦痛なのだ。
でもこれば私だからという事で、万人がそうではない。だから結婚しているときもどこかに連れていけ、という事はさんざん言われたし、行けば行くで私は苦痛だしで、それであれば友達と行けば良いのにと思うが、それもしない。嫌なことをさせられるのは嫌がらせかと思って、憎しみさえも生まれてしまうのだ。
(4)
今の時代、合理主義というのだろうか、成功する最短ルートを示すことが多いように思う。それは間違いではないが、人間関係というのは長いスパンで見る必要もあると思う。
例えば経済的な話で、旦那が働かないという話も奥さんの内助の功で更生したという話もよく聞く。逆に好きな仕事をしていても生活の為に転職させられたという話も聞く。
なので記事の考え方は納得はするが、絶対ではないと思うのだ。
私は「人は支えあう」ものだと思っている。自分の為に人を利用するとか、自分が良ければ人に我慢を強いるという態度は「愛」とは言えない。そういう意味では私も元妻も幼かったのかもしれないと思う。
まあ、なんだかんだと言っても結果論だろう。私は今充実しているから、離婚という結果は私にとって利益でしかないが。
