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MIYATAKEさん☆ファミリー☆

今日は、
miyukiにお誘い頂き~!!

TOYO'S CAMERAの

TOYO's CAMERA HP は、こちら☆

東洋宮武さん

東洋宮武(1895-1979)は、ロサンゼルスのリトル東京では知らない人のいない有名な写真家でした。
彼は、1895年香川県に生まれ、1909年アメリカに移住しました。21歳の時に当時高名だった日系人のハリー重田から写真を学びました。これは当時絵描きになりたかったという彼の希望と、両親が生活を考えると絵描きは難しいという判断の、ある種の妥協の産物だったのですが、東洋は写真に熱中し寝食を忘れて取り組みました。1923年には、偶然同じ名前の、リトル東京にあったトーヨースタジオを購入し、写真館を開きました。
彼は世界的に有名なエドワードウエストンなどからも写真を学び、次第に写真の世界では有名になっていきました。私生活では、シャイな彼は、後に結婚することになる義理の母の連れ子で彼の義理の兄妹に当たる、ひろをモデルにして写真をよく撮ったそうです。
1932年には、朝日新聞に委嘱されロサンゼルスオリンピックの写真を撮っています。
1941年の日米開戦にともない、アメリカ西海岸に住んでいた日本人、日系人、約12万人は砂漠地帯などに急造された10箇所の強制収容所に収容されましたが、東洋宮武の一家6人は、マンザナ収容所に入れられました。
この中で、彼は隠し持ったレンズとフィルムフォルダーでカメラを大工とともに作成し、密かに収容所の中の写真を撮り始めます。それは、フイルムなどを密かに届けてくれた白人の友人や日系人の収容所の警察隊の人たちの協力なしには出来ないことでしたが、そうした人間関係を築く素晴らしい人間性が、彼にはあったからだとも言えます。後にはエドワードウエストンやアンセルアダムスなどとも交遊があったと言われる写真に理解のある収容所所長メリット氏の許可を得て公式カメラマンとなり、収容所内部から収容者たちの日々の生活を写し取っていきました。その膨大な記録は写真としての価値が高いだけでなく、歴史に残る記録としての大きな意義を持っています。
戦争が終わると、彼は再びリトル東京に戻り、スタジオを開き、また日系の新聞であるラフシンポウなどでも活躍しています。
彼の日常は写真のみで、生活面は妻であるひろが支えたと言われています。休みなしで朝から晩まで写真のことに寝食を忘れて取り組む彼の姿を見て、3人の息子はいずれも、後に写真家の道を進んでいます。
リトル東京では彼を知らない人はいないほどの有名人であり、また日系社会の生き字引と言われるほど、日系人に慕われ、貢献してきた東洋は、死ぬ最後まで写真を撮り続けた写真家としても他の追随を許さない存在でした。
アンセルアダムスやエドワードウエストンなどの写真界の巨星などとも交流しながら、東洋は20世紀の日系人の記録を写真という形で残した写真家として後世の語り継がれていくことでしょう。


息子さん。
(息子さんと、その奥さんも、収容所にいたそうです。)
のお宅にお邪魔して
色んなお話聞いて、素晴らしい~写真を見せてもらいました。


昨日映画館では、見れなかったので
ASUKAと自宅で鍋しながら
上映会。
素晴らしいドキュメンタリー映画でした。


日本人として、アメリカ人として
私には、
知らないといけない歴史。

以前、二つの祖国って言う本を
友人に頂き読んだんですが。
また更に。
TOYOさんの写真のお陰で
その時代、瞬間を
見せてもらいました。
そして、アナログ写真の素晴らしさも
再確認。
私も、最近触ってなかった
フィルムをもう一度・・・・
って、気分にさせてくれた。

ありがとう。

って、思える。
そんな映画。

こんな、私の
文章力ない文章じゃ伝わらないので
是非!
見て、頂きたいです。


そして、
そんなTOYOさんの
息子さん、奥さん、お孫さんに、
会って話せてよかった☆
miyuki~ ありがと☆



217...(NINA)のハッピィ☆落書き in LA!!



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2人の笑顔。
最高です☆
しかも、うちのママを昔から知ってたみたいで
ちょっと、親近感★♬

:*:・( ̄∀ ̄)・:*:


217...(NINA)のハッピィ☆落書き in LA!!


ドキドキ
本当に、
出会いって素晴らしいドキドキ