【 42 】
8月 11日(月) 18:45
夕暮れの三宮には相変わらず人が溢れていた。
神戸港の方角には、夕陽をまるでその内部に包み込んだかのような雲が低く横たわっている。
その隙間からは鮮やかな朱の色が漏れ落ち、三宮の街に映えていた。
雄介はパーキングに車を入れ、生田神社を横目に東門街に入った。
この界隈は三宮の中でも水商売の店が密集している地域だ。
明治時代より外国人居留地の一翼を担う歴史ある繁華街であるが、震災で多くの建物が倒壊した。
それを機に他の街に移る者、看板を下ろす者、引き続き同じ場所で店を建て直し奮起する者・・・・・選択は分かれた。
雄介は未だに工事中でシートを被った店舗脇の細い路地を北上した。
突き当たりに位置する八百屋に人が駆け込んでいく。
地震の揺れに持ちこたえたことが不思議なほどに老いた店構えだ。
雄介が勤務するクラブ『カシミア』はこの東門街の北部に位置した。
各フロアにクラブやスナックが入っている雑居ビルの6F。
4年前の1993年にオープンした店である。
ベージュの扉を押して店内に入ると2人のボーイが掃除を始めていた。
「おはようございやっす、雄介さん。 井出店長ももう奥に来てまっせ、はよ準備せんと」
テーブルを拭いていた平野太一が人懐こい笑顔を雄介に向けた。
名前のままに分厚い脂肪から噴き出した汗が、白シャツと肌をぴたりと張り合わせている。
2年前、『カシミア』で働き始めた雄介のすぐ後に入ってきたのが太一であった。
年齢は27歳で一つ年上の雄介を兄貴と慕っていた。
作業にミスは多かったが、負けず嫌いで仕事熱心な情に厚い男であった。
「沢村さん、おはようございます」
続いて春山慎二が掃除機のスイッチを止めて礼儀正しく頭を下げた。
春山は3ヶ月前に採用した大学生アルバイトであった。
「今日は久しぶりに晴れて暑かったですけど、夕方になると少ししのぎやすくなりますね。 あっそうだ、これ今日の仕入れ伝票です」
春山が柔和な笑顔で雄介に歩み寄った。
面がよくて気遣いが出来る春山は、働いた期間の割にホステスを含めたスタッフからの信頼が厚かった。
「レジに置いといてくれるか」
雄介は春山の前で歩みを止めることなく店内を一回りし、清掃状況をルーティンの順序で確認した。
『カシミア』は8人が座れるとカウンターと、4~6人掛けのBOX席4箇所で店内がレイアウトされていた。
20時のオープンに向けて大方の準備を終える。
奥の調理場から仕込み作業の音が漏れ聞こえてきた。
包丁がまな板を小気味よく打ち鳴らしている。
店長の井出隼人である。
井出は店のオープン時からこの『カシミア』で働き、昨年店長に昇格した男であった。
店長になるまでの井出はまじめにトラブルも起こさずに働いていたのだが、昇格した時からやる気が空回りし、幾度か客ともめごとを起こしてしまった。
その為、ここ半年は人目につかない調理場に引っ込み、裏方作業に回っていた。
もともとが生来の三白眼で褒められた人相ではなかった為、「裏方に回ってくれて店としては良かったんじゃない」とホステスから陰口をたたかれていた。
最近ではもっぱらフルーツや軽食の盛り付けに凝り、客からの称賛の声が聞こえてくることを何よりの楽しみにている。
『カシミア』は基本的にはこの店長の井出、フロアチーフの雄介、ボーイの太一、春山の男性従業員4人と平均10~15名のホステスで営業を行っていた。
ホステスを率いる高槻沙織はまだ35歳の若さであったが、その美貌と器量の良さで既に三宮でも評判のママであった。
ホステスのシフト表とボトルの入荷表をチェックしていると、春山が背後から声を掛けてきた。
「沢村さん、前に私が言っていた暑気払いイベント・・・女の子に浴衣を着せて客にスイカを振る舞ったりする企画・・・・・先週ママに話してみたら、是非やろうよって言ってくれましたよ」
「・・・・・・そうか・・・・・じゃあ8月下旬で一週間やってみな。 春山、この件はお前が取り仕切っていい。 フォローはしてやるからさ」
「マジっすか、、、有難うございます、雄介さん、必ず店を盛り上げて売上げも伸ばしてみせますよ」
春山は学生バイトとは思えぬ献身的な働きを見せていた。
これまで使ったバイトにありがちな入店したてのおどおどした態度や、緊張で硬直した無愛想な態度とも無縁の男であった。
「おい春山、てめえ無駄口はええから、はよトイレ片してこいや!」
太一が春山をどやした。
ホステスから重宝され、自らを凌ぐ働きを見せる春山を、太一はかわいく思ってはいなかった。
「太一先輩、トイレはさっき済ませましたが・・・・・・」
「口ごたえせんでええからやれっちゅうねん。 まだ時間あんねんから何回でも掃除してこい」
「・・・・・・・・・・・・・・・分かりました」
太一がその巨体を接近させてすごむと、春山は渋々とうなずきつつその身を翻した。
「おい、あんまりイジメるなよ」
グラスを照明にかざして汚れをチェックしつつ、雄介が太一をなだめた。
「雄介はん、アイツはいつかシバかな駄目っすよ・・・・・世の中ほんま甘う見てますわ。 今も雄介はん気付かんかったでしょうけど、去り際、かなり反抗的な目で俺を見てましたわ」
「気のせいだよ」
「いや、井出店長も言うてましたわ。 言葉遣いや態度は謙虚に見えるけど、あいつの妙に光る目は気に食わんて・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
「いや、ほんまでっせ」
「・・・・・もうすぐホステスが出勤してくる。 この話は終わりだ」
雄介は太一の肩を軽くたたくと、奥の控え室へと消えた。
「おはよう~」
雄介が控え室で煙草を吸っていると黄色のTシャツにデニム姿のゆかりが現れた。
ゆかりは昼のアパレルの仕事を終えて急ぎそのままの姿で『パッション』へ駆けつけるのが常であった。
「雄介、今日もこれ終わったら何か他の仕事あるの?」
ゆかりは周囲を気遣いながら小声で囁いた。
「・・・・・いや・・・・・今日は特にはない」
「ほんと!? じゃあ今日こそ店終わったら一緒に帰ろうよ。 閉店作業、終わるのん待ってるからさ・・・・・」
「・・・・・・・・・わかった」
「えっウソ!? むっちゃ嬉しい! じゃあ近くのBARで待ってるから、終わったら電話ちょうだいね。 楽しみにしてるから、絶対やで」
ゆかりは喜びの声をあげ、雄介の小指に自らの小指を絡ませた後、更衣室へと入っていった。
この日は月曜日ということもあってか、客の入りが悪かった。
開店3時間で2組の客のみ。
ママである高槻沙織に促され、途中からはホステス達が客に営業電話を掛け続けていたが、この有様であった。
「今日はもう閉めましょうかね」
24時を過ぎ、唯一残っていた4人組の客が会計をしている最中、沙織ママが雄介に告げた。
段階的に数人は先に帰していたが、残りのホステスにも帰宅の準備をさせる。
終電を過ぎるまで勤務しているホステスについては家が三宮より西のホステスは井出、東のホステスは太一が、車で各自の住まいまで送ることとなっていた。
「店長、今日はもう閉めますよ」
雄介は調理場にいる井出に声を掛けた。
「今日、結局3組だけか?」
「ええ、そうです」
「ちょっとひでえな・・・・・・」
井出がビヤ樽に股を180度近く広げて座りながら呟いた。
「盆前だからじゃないすか・・・・・」
「ちげえよ、以前は盆前のこの時期でも、客は来てたんだよ。 ・・・・・・まだあの悪魔の破壊の爪跡が残っているってこったあな。 まあ、ウチはまだママの器量もあって早目に客が戻ってきてる方だけどな・・・・・」
確かに『カシミア』は震災からの復興においては、店舗・客足の双方で順調な回復を遂げていた。
そううまくいっている店は多くはない。
「お隣さんもやっぱり店をたたんじまうらしいぜ・・・・・共に災禍を乗り越えて頑張っていきましょう、てな話をしていたばかりなのにな、まったく寂しい限りだ」
井出はエプロンを外して大きなアクビをした。
フロアから騒ぎ声が聞こえてきた。
「わりゃ、ふざけんなよ、こんボケが!!」
太一の怒声とホステス達が騒ぐ声。
続いて何を言っているのかは明瞭に聞き取れないが春山の声が聞こえてきた。
どうやら太一と春山が口論になり、ホステスがそれを止めている模様であった。
「ま~たもめてんのか、あいつら」
井出はのっそりと立ち上がると、フロアへと出て行った。
フロアでは太一が春山の胸元に掴みかかっていた。
井出が二人の間に割って入る。
「てめえら! 客がはけたとはいえ、こんなとこで喧嘩してんじゃねえよ!! 太一、てめえは声がでけえんだから夜中にわめくな、近所迷惑だ。 さっさと送りの車回してこんかい!」
井出は太一を恫喝し、その太鼓腹をつねりあげた。
「イテテテテテ!! ・・・・・・でも店長、あいつが悪いんすよ、訳の分からんことばかり言いやがって・・・・・」
「うるせえんだよ、いいから早くいけ」
井出は右目を大きく見開き、今度はドスの効いた声で威嚇し、太一の尻を蹴り上げた。
「店長、暴力はあきませんて!」
太一はそう叫びながら尻を手で押さえつつ、外へと出て行った。
続いて井出が春山に歩み寄った。
「おい・・・・・・バイトの青二才、てめえもまだまだ新米なんだからいきがってんじゃねえぞ」
井出は春山に額をすり寄せ、そう吐き捨てるやいなや、春山の股間を鷲づかみにした。
春山が小さく体を痙攣させたその瞬間、井出の右腕に血管が走り、鷲づかみにされた膨らみが捻りつぶされた。
春山がギャッという叫び声をあげてフロアに突っ伏す。
「ちょっと、何てことすんのよ店長!」
ホステス達は井出を突き飛ばすと、顔面蒼白になって床で呻いている春山を心配そうに取り囲んだ。
「ったく、ちょっと遊んでやっただけでオーバーに倒れるなっつうの。 さあもう今日は閉店すんだから、おめえらも早く返り仕度しろよ」
井出はそう言い残すとテーブルに置いてあった氷を荒っぽく口に放り込むと、調理場へ戻っていった。
「春山君、大丈夫!?」
「え、ええ・・・・・何とか大丈夫そうです・・・・・」
春山は気丈に起き上がろうとしていたが、相当に股間を強く握られたのか、額には妙な汗が浮かび上がっていた。
客を見送りに外に出ていた沙織ママが店内に戻ってきた。
騒然としたフロアの有様について、沙織が血相を変えて雄介に説明を求めてきた。
「大騒ぎする程のことではありません・・・・・店長が春山に少しカツを入れただけですよ」
雄介はそう言い残すと一人テーブルの後片付けを始めた。
納得のいかない沙織は周りのホステスを集めて、ヒアリングを続けていた。
騒ぎも落ち着き、スタッフが帰り仕度を終える頃、ゆかりが雄介にそっと近寄ってきた。
「春山君、実は私をかばって太一君に怒られたんよ」
「・・・・・そうか」
「この後さ、雄介とふたりで帰ろうって言ってたけど、一緒に彼を飲みにでも連れていってあげへん?」
「・・・・・」
「彼、みんなの前であんな風になって今相当落ち込んでるみたいやし・・・・・ちょっと心配やから」
世話焼きのゆかりらしい気遣いであった。
「そんな役はお前だけでいいよ。 俺は先に帰っているからさ」
「なんでよ、雄介えらい冷たいやん」
「あいつを励ましているほど暇じゃねえんだよ。 自分に非がない時は『やられたらやり返せ』ってあのアマちゃんに言ってやりな」
井出が鼻歌を鳴らしつつ調理場から姿を現し、太一が送迎車のキーを右手に店内に戻ってきた。
太一はばつが悪かったのか自分が送るホステスを呼び集めると、そそくさと店から出て行った。
一方の井出はゆっくりと袋にゴミを詰めていた春山に近付き、肩に手を掛けた。
春山の動きがぱたりと止まる。
井出は春山の耳を指でつまんで口元に引き寄せた。
「さっきは悪かった・・・・・少し強く握り過ぎたな。 まだ痛むか? でもねお前さ・・・・・家ではウチのホステスの裸を妄想して狂ったように毎日オナニーしてるんだろ!? ちょうど良かったじゃねえか、これで少しは休憩出来るかもな」
井出はそう言うと、肩を揺らして笑いながらトイレへと姿を消した。
この井出の追い討ちに対し・・・・・影になってよくは見えなかったが、春山の目が異様に鋭くぎらついたように・・・・・雄介には見えた。
「気にするなよ、水商売ではよくある新人イビリさ。今日は客もあまり来なかったからな、太一も店長もイラついてたのさ・・・・・」
雄介が春山に声を掛けた。
「・・・・・いえ、僕が悪いんで・・・・・お騒がせして申し訳ございませんでした」
春山が押し殺した声を絞り出した。
雄介は春山の目を覗き込んだ。
表情はいつもの春山に戻りつつあったが、目には屈辱から来る暗い焔が宿っているように見えた。
「そうか・・・・・明日もちゃんと出てこいよ・・・・・じゃあな・・・・・」
雄介は春山の胸に握りこぶしを軽くぶつけ、店内を見回した後に帰り仕度を整えた。
沙織がトイレから出てきた井出をカウンターに呼び、何やら話を始めている。
ことの顛末を聞いて、井出の言動に対して注意をしているようである。
入り口近くのソファシートでは井出の車に乗って帰るホステス2人が待ちぼうけをくっていた。
ゆかりは雄介へ申し出た通り、春山を飲みに連れ出したようだ。
雄介は出入り業者への注文表をカウンターに置くと、店からひとりで出た。
エレベーターを降りている途中、右目を膜が覆った。
人差し指で右目を擦ると、淡く黄色がかった粘着質の目ヤニがべたりとはりついた。
左目も擦ってみる。
同じように目ヤニが指にまとわりついた。
月曜日の深夜。
人のいない街頭。
ぽつりとたたずむ女。
片言の日本語。
キモチイイことシヨウヨ・・・・・
・・・・・コノヨニキモチイイコトナンテアリャシネエ・・・・・