【 41 】

 

 

 

8月 10日(日)  14:22

 

 

 

  

 

公園裏の袋小路・・・・・待ち合わせ場所・・・・・

小田島里美の細身のシルエットが視界に入る。

 

目深にかぶったいつもの帽子。

ショートヘアで栗色の髪の毛。 

  

里美は『パッション』オープン当初から在籍している31歳の既婚者である。

夫が勤務に出ている昼間のみ、週に2~3回ほど出勤していた。

 

人目につかないこの路地を待ち合わせ場所に指定するのは、当然近所の目を考えてのことであった。

     

 

 

「おはよう、今日もあっついね・・・・・」

   

 

 

里美が慣れた体さばきで右足から車内に滑り込んだ。

香水を含んだ女の匂いが車内に混入する。

 

 

雄介がハンドルを切ると、里美は窓を少しあけて煙草を吸い始めた。

生温かい空気が冷房の効いた車内に流れ込む。

 

 

「ご機嫌ななめですか・・・・・」

 

 

「わかる? 朝から旦那と喧嘩して、むちゃくちゃイラついてたんよ。 顔も見たくなかったから、日曜日だけど出勤することにしたわ。 しかしほんっまに今日は頭きたわ。 ・・・・・まあ、でもドライバーが雄介君でよかった・・・・・こんなことも話されへんからね」

 

 

里美は長身でスタイルのよい色白美人であった。

また切れ長の瞳とさばさばとした性格で一見クールに見えるが、その歯に衣着せぬ語り口調とサービスの良さで多くの固定客を掴んでいた。

 

 

「もしよければ目的地に着くまで・・・・・聞きましょうか」

 

 

「いや全然くっだらない喧嘩。 マジメに話すのも馬鹿馬鹿しいけど・・・・・うちの旦那、ほんっと子供が生まれてからおかしくなってね・・・・・挙動不審というか・・・・・精神的に余裕がない感じ。 昔からちっちゃい男とは思ってたけど、最近ますます拍車が掛かってきてるわ。 仕事がうまくいってないんかどうか聞いてもちゃんと答えへんし、子供の世話を頼んでも気持ち悪い溜息ばっかついているし・・・・・多分、鬱病かなんかと思うわ、あれは・・・・・もう旦那が家にいるだけで気が滅入ってくるんよほんと・・・・・」

 

 

「・・・・・旦那さん、どんなお仕事されているんでしたっけ・・・・・」

 

 

里美は深い溜息をついて頭を左右に振った。

 

 

「旦那の話はもういいよ・・・・・思い出すだけで腹立つし。 違う話をしよ・・・・・最近店の調子はどうなん?」

 

「・・・・・・・・・・・・里美さんのおかげで緩やかに売り上げは伸びているみたいですよ」

 

「お世辞がうまくなったわね雄介君、何も出ないわよ。 それよりかさ、新しい女の子ちゃんと入ってきてんの? 何かやたらとソプラノさんから出勤日をもう少し増やせないかって話が来るんやけど・・・・・」

  

「里美さんは『パッション』のスーパーエースだからね・・・・・でもまあ、大学生からOLから人妻まで面接にはよく来てるみたいですよ。  ウチは一応高級店として成功しているから、その分給料もいいですからね、この業界ではそういうのって女の子の間では口コミですぐ広まるみたいで・・・・・」

 

「そうなんだ、でもほんと素人っぽい娘が増えたよね、、、、まあお客さんにとっては擬似恋愛をする上でその方が大歓迎なんやろうけど・・・・・・。 でもさ、そんだけ風俗経験のある『普通っぽい女の子』の数が増えていくってのは・・・・・そういうことに嫌悪感を抱く男にとっちゃ悪夢よね。  ごく普通の学生やOLと思って付き合い始めた女が、昔は風俗やってました、みたいな・・・・・・・当然、私も人のことは言えたもんじゃないけど・・・・・・・旦那にばれたら間違いなく殺されるもんね。 まあ万が一にもばれて騒ぎ出したらすぐ別れてやるけど・・・・・」

   

 

里美が自嘲の笑いを浮かべ、自らの手で冷房を強めた。 

 

 

「ラジオつけていい? 最近、お客さんに政治家が何人かいてさ、一応ニュースとかもちゃんと聞いて勉強してんの。 さすがにフトイ客もいるからさ・・・・・ 」 

   

 

 

 

里美の長い人差し指がスイッチに触れると、突如アナウンサーの張り上げた声が車内に響いた。 

  

 

------- 三遊間を抜けた~~! なんとここで、先頭バッターが出ました! ツーストライクと追い込まれてからくらいつくようにレフト前ヒット。 逆転に向けてまずキャプテンが出塁しました!!!  --------

 

 

 

 

高校野球中継・・・・・甲子園にて第3試合が佳境を迎えていた。

  

 

 

「すごいね、盛り上がってるやん・・・・・しっかしさ、高校野球のアナウンサーってえらいよね。 こんだけ一球入魂で放送してたら一試合終わったら3キロは痩せてんでこれ。 しかも甲子園の放送席って確か屋外ちゃうかったっけ。  でも私さ、プロ野球はそんな興味ないけど、高校野球は好きやわあ。 家でも時たま見入っててしまうときあるもん。 最後の方は絶対いつも負けてる方を応援してしまう・・・・・」

  

 

「・・・・・ニュース、聞かなくていいんですか」

 

 

「いいよ別に・・・・・。 そういえばさ、雄介君っていい体してるけどスポーツは何かやってたん?」

 

 

「・・・・・・・・・・いえ、別に・・・・・・・・・・・俺は高校にも行ってないですからね」

 

 

「・・・・・あっ、そうなの・・・・・」 

 

 

 

 

 

山の斜面を上り、住宅街に入ったところで信号につかまった。  

 

車の前を腰の曲がった老婆が汗を拭いながら、横切っていく。

  

長い赤信号の間と、漏れ聞こえる蝉の鳴き声。

 

反対側の歩道で乳母車を押した女がスーパーに入っていく。 

 

店内は空いているようだ。

  

 

 


 

ラジオから乾いた金属音が響いた。  

 

大歓声がスピーカーから噴き出す。

 

続いてアナウンサーが大声で連呼する。

 

 

 

----- 入った、入りました!!! なんとホ~ムラン! ここでホ~ムランです!! -----

 

 

 

 

「うわ!!! 逆転やん!!! やったやんこの子!!!!」

  


里美が目を見開いて激しく太股を手で叩く。

 

 

「根性あるわ~この子!! よし、これであと一点取れば同点やね!」

 

  

負けているチームの選手がホームランを打ったことがよっぽど嬉しかったのか、里美は打った選手を称賛し続けていた。

 

 

 

信号がようやく青に変わった。

 

 

「もうすぐ着きますよ」


  

「あっそう、早いわね」  


 

 

雄介は依頼客のマンション前に車を停止させた。

 

里美は律儀にシートを元の位置に戻すと、手鏡で化粧をチェックする。

 

 

「雄介君、この試合終わってからでいい?」

 

  

「・・・・・・・・・・・駄目ですよ」

  

 

「え!? ほんまに駄目? こんないい場面で・・・・・・」

 

 

「お客さんが待っていますよ」

 

 

「あっら~、雄介君もなんか厳しくなったね~」

 

 


里美はとがらせた唇にグロスを塗った。

 

内に巻き込みながら上下を重なり合わせた唇が艶かしく輝く。 

 

 

-------- フォアボール! 


       カウントツースリーからよくボールを見ました  ----------



次打者はファールで粘った末にフォアボールで出塁となった。

  


 

「しょうがない、あきらめますか・・・・・確かにいつ終わるか分からないわね、こりゃ。  ありがと・・・・・雄介君と高校野球のおかげで少し気分が晴れたわ。 じゃあね、いってきます!」

 

  

 

いつもの快活な里美の声であった。

  

静かにドアが閉まる。

 

里美は一瞬足元を気にした後、ベージュのパンプスの音を響かせてマンションエントランス内へと消えていった。

  

  

 

 

   

里美の後ろ姿を見届けると、雄介はマンション脇の日陰へと車を移動させた。

 

ラジオのボリュームを絞り、シートを若干後ろに倒す。 

 

送迎中は口にしない煙草を取り出し、煙を肺の深くまでゆっくりと行き届かせた。

  

足をハンドルの上に投げ出し、シートベルトを外す。

 

溜息と同時に吐き出した煙がフロントガラスにぶち当たる。 

 

  

 

 

曇り空から少し晴れ間が覗いた。

  

 

閑静な住宅街。

 

 

人も車も通らない。

  

  

窓は少し開いていたが、物音ひとつ聞こえてこない。

 

 

里美が入ったマンションも不気味なほどに静まり返っている。 

  

  

さっきまで聞こえていた蝉の鳴き声も遠のいた・・・・・

 

 

掠れたアイドリングのエンジン音だけが低く呻き、じめついた空気を震わせている。

 

 


 

 


 

 

ボリュームを下げたスピーカーから試合終了の合図が微かに聞こえてきた。

   

  

逆転に成功したのか、逃げ切られたのか・・・・・・

 

 

どちらかの学校の校歌が流れ始めた。

 

 

抑揚の効いた音と声。

 

 

雄介は車の冷房を切ると、浅いまどろみに落ちた。 

 

 

薄光の中で徘徊する意識。

 

 

汗が額をつたう。

 

 

どれぐらいの時が経ったのであろうか・・・・・

 

 

目を開くと、校歌が終わっていた。

  

 

車のエンジンを切る・・・・・

 

 

一切の音が止む。

 

 

里美が開けっ放しにしていたアッシュトレイに吸殻を放り込んだ。

   

    

口紅の付着した煙草が3本、綺麗に並べられている・・・・・

 

 

 

  

  

真夏の日曜日・・・・・

  

  

いつのまにか曇り空が霧散したフロントガラスの向こうには

 

 

とてつもなく巨大な入道雲が出現していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・・・クモワワキ、ヒカリアフレル・・・・・