【 15 】

 

    

    

12月 24日     23:08

   

       

吹田事件は『戦後の三大騒擾事件』と呼ばれている。


1952年6月25日、『朝鮮戦争に反対』し、朝鮮向け軍事輸送の拠点-国鉄「吹田操車場」に武装したデモ隊が乱入した事件である。


当時の共産党が指導した事件であった。


デモ隊の構成要員は、当時の左翼運動の中心だった全学連・在日朝鮮人・全日自労(いわゆるニコヨンとよばれた日雇い労働者の組合)が中心であった。

諸説あるが、1000~3000人が参加したといわれている。


朝鮮戦争2周年を翌日に迎える6月24日の夕、大阪大学石橋キャンパス(通称:待兼山)で開かれた「伊丹基地粉砕・反戦・独立の夕」に始まる。(阪大生も多数、デモに参加していた)

当時伊丹基地にはアメリカ進駐軍がおり、伊丹空港から連夜朝鮮半島に向けて、爆撃機が飛んでいた。

また、吹田操車場からも軍事物資を載せた列車が走り、神戸港から朝鮮半島に送られていた。

 

 

「俺の親父は鉱山労働者でな、多くの朝鮮人や学生に混じってデモに加わったらしい・・・・・自分の嫁の腹ん中には、4ヶ月になる胎児がいたとういうのに・・・・・」

 

  

デモ隊は阪大キャンパスでファイア・ストームを焚きながら、真夜中零時過ぎまで集会と歌で盛り上がり、深夜二手に分かれて行進をスタートさせた。

集団は竹ヤリやこん棒・火炎瓶といったもので武装していた。

 

明け方たどり着いた吹田駅や大阪駅等で、デモ隊は武装警官と激しく衝突する。

一部のデモ隊は派出所やウィーポン車へ火炎瓶を投げつけ、茨木市警の警官は火だるまとなった。

また武装警官による激しい弾圧の末、デモ隊側もピストルの貫通銃創など重軽傷者を多数出した。

両者の衝突で駅やその周辺は大混乱に陥った。

  

結局、逮捕者250人近く・起訴110人(日本人被告6割・朝鮮人被告4割)という大事件となった。

     

「親父は吹田駅にたどり着き、ホームに上がった瞬間、どっと襲い掛かってきた警官にタコ殴りにされちまった。警棒を一発二発と食らいながらも、逃げ惑った親父は線路の上に頭から落っこちた・・・・・気がついた時には病院のベッドの上だったようだ」

 

「それがお亡くなりになった直接原因ですか?まさか、それじゃあ親父さんは警察にやられたことに・・・・・」

 

「いや、そこが親父の馬鹿なところでな・・・・・意識もあり、歩けることだし、たいしたことはないと、すぐに退院しちまったらしい・・・・・だが、しばらくして突然倒れた・・・・・そしてそのまま意識が戻ることもなく、お袋と俺をほったらかして逝っちまったとのことだ。外傷はほとんど見られなったのだが、頭の血管と組織がやられていたらしい。そして親父の死は吹田事件とは因果関係は無いと判決された。ただの脳腫瘍だか、脳梗塞だかにされたのさ・・・・・

  

          

畑山の二つ隣の部屋の戸が開いた。

のっそりと一人の住人が出てきた。

薄暗くて性別が判断できない。

住人は渡りを突き当たり、螺旋階段を下りてきた。

再び益田はフロントガラスの曇りを楕円に拭き取った。

    

 

「笑えるだろう、益田。左翼の活動に参加し、警官に殺された男の息子が、今こうして警官となって左翼を監視しているのだからな」

   

 

出麹は口に手をあてがいながら、自嘲の笑いを浮かべた。

   

二つ隣の住人は男であった。

郵便受けの中身を手に取ると、再び螺旋階段を上がり始めた。

 

    

益田はこの時の出麹について、後にこう口述している。

    

  

『出麹主任は自らの境遇を【愉快】だと、堪能されているようであった。主任の底知れぬ素性の一端を垣間見たような気がしました。その時私は握った掌が、なぜか汗ばんでおりました・・・・・』

 

 

   

・・・・・スイタジケン・・・・・