このところ、「相手との関係性が深まると、何でも言える関係になる」といった思い込み(と考えます)について、考えています。
その具体例として、私の教職の授業を受講している2つのグループ「親しくないメンバーの集まり(3年生)」と、「親しいメンバーの集まり(4年生)」を取り上げ、それぞれのグループ内での発問に対する話し合いの様子の相違点について、考えてきました。(以前のブログ参照)
前回、その違いについて、以下のように考えました。
彼等(どちらのグループも)は、今の若者特有の『ピカピカに磨かれたリスキーキャッチアンテナ』と、『キリキリと研ぎ澄まされた傷つきやすい心』を持っています。すから、相手を傷つけることに臆病ですが、それ以上に自分が傷つけられることを怖がります。そこで、例えば『このいじめの事例に対して、どう思う?』との私の発問に対して、「○○と考える」という自分の意見を発表はするものの、チーム内で異なる意見が出でくると、「そうだよね」と受け入れるわけですが、そこには『ここで無理して自分の意見を主張すると、みんなからどう思われるだろうか』という、いわゆる『忖度』『自己保身』がはたらいているのではないかと考えます。とりわけ、この4年間の多くの時間をともにしてきたならば、「明日も朝から一緒だから‥」等と、思っても不思議はないのかもしれません。もちろん「親しくないメンバーの集まり(3年生)」でも、そうした気持ちははたらくと思いますが、前回もお話したように、何分1週間に1回の出会いです。そんなに親しい関係を築いているわけではありません。お互いに多少のきまずさがあっても、次に会うのは1週間後です。その事実を覚えているかも分かりません。
ここに、両者の違いの根本があるのではないかと、前回考えました。
みなさん、どのように思われましたか?
実は、昨日今期の授業の準備のために、過去のPP資料を見直していたところ、過去の『皆さんの意見から』(授業後に、学生が提出する振り返りシートの記述)に、「チーム替えがあって、今回は顔見知りのメンバーばかりだった。みんな、嬉しそうに自己紹介していたけれど、話し合いになったら、沈黙が続いた。前のチームは知らない人ばかりだったけど、結構意見が活発だったのに‥不思議だ」という記述を発見しました。これも、一つのエビデンスではないかと思いました。
そんなことを考えていたところ、SNSで『褒められたくない若者たち』という記事を目にしました。
今までも、アドラー等は「こういう人、時は褒めない方がいい」等といったことを主張していました。
例えば、「もともと自己肯定感が低い人を褒めて、かえってプレッシャーをかけてしまうから」といった具合です。
しかし、今回は少し様子が異なるようです。
今の若者は、『褒められたくない、目立ちたくない、埋もれていたい』との考えです。
すなわち、今学校や職場で「君の仕事はいいねぇ。とても期待しているよ」等と、他の人の前で言ってほしくないということです。
みなさん、どう思われますか?
私は、大学生と関わる中で、感じることがあります。
そして、『目立ちたくない・周囲から浮きたくない』といった気持ちは、このところ取り上げてきた二つの人間関係の異なるグループ内での言動の違いとも相通じるところがあるのではないでしょうか。
『発言して、凄いねと言われたくない』の思いの裏には、『周囲は、わたしのことをどう思うのだろう』という不安や怖れ、そして周囲を信じられないという不信感すらあるのではないでしょうか。
この視点(褒められたくない)で、さらに考えを進めていきましょう。
こうした身近な問題をもとに、参加者全員で話し合ったり、ロールプレイでスキルの練習をしたりする会【コミュニケーションカフェ】を開いています。
リアルでもOnlineでも開催しています。
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