らぬ者がいないほどであった。このような状況の下で、はたして官僚が強力な行政指導を通じて、場合によっては営業の廃止を命じるなどということが可能であっただろうか。元来、現状維持を望む傾向が強い官僚が、外科手術的な方向転換に指導力を発揮することは、そもそも無理だったとも言えよう。その中で坂野常和は異色の官僚であった。昭和三十七年七月に証券第二課課長に就任すると、直ちに証券会社支店の新規開設を停止した。表2から明らかなように昭和三十七年に支店増設のスピードがようやく弱まり、翌年以降減少をはじめたのは、部分的にせよ、彼の指導の結果であった。同時に坂野は借入金の制限、自己売買の規模の制限を打ち出している。当然のことながら、証券業界は反発し、それまで証券行政を担当してきた理財局の官僚さえも驚きと同時に困惑の色を隠さなかった(注12)。
 もちろん坂野がこのような諸策を打ち出したのは、単にマナーの悪さを改めさせるという消極的な意味だけではなく、その裏で証券各社の経営が相当悪化していることに気がついたからであった。坂野はそれまでの一連の諸策が充分な効果をもたらしていないと考え、それらを集大成した形で昭和三十八年七月五日、いわゆる坂野通達と呼ばれる「証券業者の財務管理等について」という財務官通達を出している。通達の内容は、自己資本に対する負債比率、固定比率、有価証券保有比率について制限を設けるというものであり、特に最も問題であった運用預りについては、純資産の三倍を限度とし、二倍が望ましいと述べていた。どのように考えても証券業界には厳しい内容であった。とりわけ有力な資金調達の手段である運用預りの規制について業界は猛反発し、坂野個人も「月夜の晩だけではない」など生命の危険さえ感じるほどの脅迫をしばしば受けたという。
 業界の不安もある意味では当然であった。この頃になると、大手四社を中心にいわゆる運用一九社は、資金調達の相当部分を運用預りによって手にした金融債を担保とするコール資金に依存する状況にあったからである。昭和三十七年の全国証券業者の借入金状況でみても、コールの取り入れは全体の五四・七パーセント、実に二、一六四億円にも達している(注13)。したがって、坂野通達の内容を当然のことと受けとめる業者がいる一方、財務体質の悪いところの中には、手持株を手放さなければならないところもでてきたのであった。坂野としては、そのようなショック療法による一時的な株価低落は織り込み済みであり、通達が完全に履行されれば、財務体質は改善し、結果的に株価は反発すると見ていた(注14)。
 坂野の目論見を大きく狂わせることになったのは、の七月十八日に、ケネディ大統領がアメリカの対外投資抑制を求めて利子平衡税の実施を明らかにしたことであった。これによって翌日の東証ダウは六四円四一銭安と一日の下げ幅としては開所以来の記録となった。利子平衡税の発表がこれほど株価に響いたのは、当時の日本経済が貿易収支の赤字を資本収支の黒字即ち、外資の導入によって補っていたからである。
 ケネディ・ショックと通達は何の関係もなかったが、証券業界では両者を結びつけ、この暴落に対し、坂野への感情的反発を強めることになった。証券業界がその本音ともいうべき裏面史を書き記した『証券外史』は、坂野通達、ケネディ・ショック、ケネディ暗殺による下げを昭和三十八年の三つのショック安と位置づけ「環境、地合いの悪いところへ、この連発ショックはこたえた。証券恐慌という地獄の入口ともいってよかろう」と記している(注15)。
 こうした証券界の反発とケネディ・ショックによって坂野通達の履行は、しばらくの間棚ざらしとなる。それは大蔵省内でも坂野通達への批判が強かったことも関連していた。池田首相が歴代総理に比較して、株価の騰落に強い関心を持ち続けていたことは既に述べたが、おそらく池田の指示もあったのであろう、田中大蔵大臣は、その通達を弾力的に運用するよう事務当局に指示している。田中自身も坂野の「走り過ぎ」を些か当惑の目で見ていたことは、昭和三十九年三月六日の衆議院大蔵委員会での発言からうかがわれる。
「ケネディ・ショックが起きたか起きそうなときにやった(通達=筆者注)ということから言うと、時期が適当でなかったのじゃないかということは、私も現在そのとおり考えております。やはりいいことでも時を選んで十分な慎重な配慮の上になされなければならぬことは、言うをまたないわけであります。私もその問題については、その当時はあまり——まだ一年目でありましたし、事務当局を重んじ過ぎたということもあるようであります。(中略)でありますから、通達は出しましたけれども昨年の末ごろまで(昭和三十八年末まで=筆者注)約