こんばんは。由美子です(*^^*)
「実家のお店、最近開いてないけど、どうしたの?」とよく聞かれるので。↓ ↓ ↓
ただいま、踵骨骨折(かかとの骨折)で入院中の実母。現在、72歳。
もうそんな歳なんだなぁ~と思います。
オペから約1ヶ月経過。
ギブスも取れて、毎日、若い理学療法士の先生にリハビリして頂いて嬉しそう(笑)
今まで、大病した事もなく父と弟達と一緒に
バリバリと仕事をしていた母。
弟のお嫁さんも、まだ小さな子供が二人いるのに経理を手伝ってくれています。
※『田島商店』群馬県伊勢崎市境島村3103-1 TEL 0270-74-9552 という屋号でプロパンガス、灯油、ガス器機、群馬県伊勢崎市、埼玉県深谷市、埼玉県本庄市指定の上下水道設備工事業です。お引き立て下さいm(__)m
母は群馬県太田市の金山近くの田舎の出身。
治良門橋(じろえんばし)の近くで、養蚕業と農業を営む家で生まれました。
私の記憶では、母方の家はとても気難しい祖父と、おおらかでとても優しい祖母。
母方の祖母はお金が無いのにたくさんの孫達にどんどんお小遣いをあげて(笑)、逆に祖父はとても細かい人(笑)
母はそんな養蚕農家の長女(四人兄弟で、姉妹弟弟)に生まれ、苦労して中卒で、16歳の時にひとりで大阪に奉公に出て、親戚の叔母さんの家に下宿して経理を学んだそうです。
23歳で、父とお見合い結婚して島村の父のところに嫁いでからは、仕事、仕事の日々で、当時は重いプロパンガス(60キロのボンベ)を母が軽トラで配達。
祖父が立ち上げた精米業(長いゴムベルトを使った動力の精米方法でした)と、オガライト、練炭、豆炭、プロパンガスの配達。
そして祖母は雑貨屋をやっている、という家族経営でした。
母は朝、起きると髪をとかす暇もなく、スカーフをくるっと巻いて、朝から晩まで働き通し。
今でもよく覚えているのは
私「お母さん、何でお父さんと結婚したの?」
母「お見合いで、お父さんの家に来たら梨がお店にたくさんあってさぁ(当時は雑貨店)、ここにお嫁に来れば、梨が好きなだけ食べられると思ってさぁ!」(笑)
そんな事で、結婚を決めた母(笑)
でも、働いて、働いて、働いて。。。
私も小学校から帰ると、弟(二人います)を抱っこして(子守り)助手席に乗って、配達に同行。
母が配達している間、私が弟の面倒を見ます。ミルクをあげたり、おんぶしたり。
井戸水をガシャンガシャンと汲んで、
手縫いのさらしのオムツもたらいで洗いました(笑) 井戸水が凍る程に冷たくて、そしてオムツも冬場は干すとカチカチの板状に凍った! 懐かしいです。
村の役員なんかもしてたのか?母が会議中には私が車の中で弟(まだ赤ちゃん)にミルクをあげていた記憶があります。
父方の叔母達も同居していて、大家族だったので、みんなで子供を育てていたんですね。
そう考えると、とても良い時代でした。
父方の祖父母も父も母は自営業にかかりっきりで、私の記憶では仕事をしている姿しか見たことがないくらいで(笑)
当時は祖父(父方の)考えで、
「お店は常に開けておくもの。閉めたらダメ」という事で、365日営業。
どんなに夜遅くに電話が来ても、お客さんの家に飛んで行き、お店は土日もお正月もお盆も絶対に閉めない(笑)
田舎のコンビニ状態でした。
40年前は村のよろず屋として、日用雑貨や野菜、お菓子、パン、マンガ本等、色々売っていて島村の方が色々と買って下さいました。
祖母は、買物に来てくれたお客さんにお茶やお菓子を振る舞って、家のお茶の間に上がってもらうのです。
『あがらっせ』(御上がりなさい)と。
ほとんどがお年寄りです。
そこで、あーだこーだと世間話を。
子供の私も、忙しい時は「お相手しなさい」と言われてお茶をお出しして、お客さんのお話を聴いていました。
お相手と言っても、お年寄りのお話を聴いて、お茶のお代わりを出すだけなのですが、先人のお話から色々と学ばせてもらえた事があります。
そこで学んだのは、同じ出来事に対する、万人の感想の違いです。
茶の間にお客さんが数人いらっしゃると、
島村の色々な話が出て来ます。
ああ、この人はこう考えているけれど、あの人は違う考えなんだ。
でも、お互いに尊重し合っている。
小さな村で歩み寄りながら仲良くしている。
そういうご縁作りが、40年前にあったのですね!祖母が何かを意図して、お客さんを茶の間に上げてお茶をお出ししていたとは思いませんが、
当時、小学生だった私。そういう情景を今でも覚えているし、そういう生活の中での気負わない交流が、実は大切な事だったのではないかなと思います。
子供が家族以外の、ご近所の大人、お年寄りと一緒にいる時間。そこで学んだ事。
今、思えば本当に贅沢な時間だったと思います。
