スミマセン。2ヶ月ぶりの田島弥平『養蚕新論』口語訳ですよ♪
●『催青論』の続きです(*^^*)
『養蚕新論 田島弥平 口語訳♪1~20』もご覧下さい。

※(明治農書全集第9巻抜粋)
ぐんま島村蚕種の会 編纂発行
蚕種が青くなったら、いよいよお蚕さんを生まれさせるために、蚕種の上下に紐を付けて、毎日上下を交代させるのです。
暖かくなるにしたがって、だんだんと蚕種が紫色から青色になります。
毎日上下を交代させると、少しでも種紙の上にある方が先に青くなって、俗に云う種虫となります。
同じ家の中でも、種の置場によって10~20日の差がありますよ。
種紙一面が青くなり、種虫となり
種紙1枚にお蚕さんが2、30頭、多くて100頭、200頭生まれるので
その生まれてのお蚕さんを羽ぼうきで、大切に丁寧にそっと紙の上に掃き落として、桑を食べさせる準備をすることを
島村の方言で『虫ばき』と言いますよ。
そして、種虫を大切に包み紙に包んで、籠に入れて、棚へ奉納します。
●『掃き下ろし論』

※金井研香 画
掃き下ろし(はきおろし)は、前の日に包んでおいた種虫から、お蚕さんになった分量に合わせて
昼間の10時頃から蚕籠に筵(むしろ)を敷いて、種の上に粟(あわ)の糠(ぬか)を振りかけて
さらに、その上に桑の葉を細かく切って与えて、お蚕さんに食べさせます。
桑の切り方は、一分四方(約3ミリ四方)にして
、ふぞろいのないようにして下さいね。
桑の葉を、粟糠が下に見えないくらいに厚く与えて、お蚕さんに食べさせて
2時間ほど籠を棚の上に置いて、桑の葉を充分に食べた頃に、羽ぼうきで丁寧にお蚕さんを隅に寄せて、種紙を取って
種紙の裏側にくっついたお蚕さんを、また丁寧に羽ぼうきで掃き下ろして
裏側から細い桑の箸のようなもので、払い
さらに、またその跡を羽ぼうきで掃き下ろして
残った種はまた丁寧に紙に包んでおいて、明日の朝、もう一度、同じように繰返します。
続く♪
※註釈 この行程を読んで頂きますと、お解りになるように、弥平さんがとても大切に丁寧にお蚕さんを育てている様子が書かれています(*^^*)
まるで自分の子供のように、一頭(蚕は家畜として飼育されていたので一頭、二頭と数えます)も無駄にしないように、扱われていますね!
何故このように、神経を使いながら蚕を育てたのでしょう




それは当時、ヨーロッパでは蚕の微粒子病が蔓延していて、良質のシルクを取ることが出来なくなっていたため東洋に販路を求めていました。
その頃、東洋で養蚕の最大の生産国であった中国はアヘン戦争の最中。
とてもシルクを生産出来る余裕がありませんでした。
日本に、オファーが来たのは大きなビジネスチャンスだったのですね




とくに
島村の蚕種は、田島弥平氏らが、日本に初めてイタリアから顕微鏡を7台持ち込んで、微粒子病の研究をしたために
(田島弥平旧宅の2階には自然光の当たる部屋で研究出来る、顕微鏡室がありますよ♪)
病気のない高品質の蚕種をヨーロッパに輸出することに成功して
後に、島村ブランドの蚕種を輸出する『島村勧業会社』設立となったのですね!
また
島村の高品質の蚕種のヨーロッパへの輸出、販路の拡大と外貨取得により日本経済が潤うと共に
田島弥平の考えた櫓(やぐら)造りの『清涼育』という気を巡らせる養蚕家屋での蚕の飼育方法は、
渋沢栄一氏が、親戚である田島武平を宮中ご養蚕の指導者に推薦することで
一時途絶えてしまっていた宮中ご養蚕を復活させます。
これは、古代雄略天皇の時代から継承されていた『神の虫』である『お蚕』を民俗学的にも宮中行事として敬い、国の繁栄を願うと共に
結果として、美智子皇后が育てている小石丸という品種が、正倉院の古代布の復元に役立っているんですよ♪
先人の豊かな叡知を、途切れさせずに
繋げてゆく事の豊かさを感じさせるエピソードですね!
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