彼女はいつも病的なほどに几帳面だった。
大学の構内にある図書館にいけば職員でのもないのに並んでいる本のゆがみを直し、食堂では無法に放置された食器たちを何も言わずに片付けていた。
大学の職員の間で、彼女は見えない小人さんと呼ばれていた。
僕は彼女を学校の中でしか見たことがないけれど、彼女の日常は自動的にポップアップするインターネットの広告ページのように簡単に頭の中で見ることができた。
道端に落ちているごみを子供を抱き上げるかのように丁寧に拾い、駅に置かれている芸術的なまでに乱雑に放置された自転車を、まるで定規でもあてがったかのように綺麗に並べ、家に帰れば靴をきちんと並べて玄関を上がり、すべてのものが整然と片付けられた部屋の中できちんと時を過ごすのだろう。
僕はそんな彼女のことを考えると、彼女が整列させた自転車をなぎ倒してしまうような胸のざわめきを止めることができなかった。
そして、僕はいつも彼女のきちんとした世界に近づきたいと思っていた。
僕の通っている大学の中庭には、きちんと刈られた芝生が敷かれ、その中央に噴水があった。
天気のいい日にはザバザバと噴出される水の音に芝生も学生たちも聞き入り、多くの学生が芝生の上に寝そべって時を過ごす姿が目についた。
ちくちくと体にささりそうなほどに生き生きとした芝生に透き通る水。
そんな中でゆっくりと流れる水と時間、それは僕たちにとって自由のシンボルのようなものだった。
ある日、講義を終え、帰路につこうとしていた時、僕はその小さなオアシスで彼女を見つけた。
その頃の僕は、無意識のうちに彼女を見つけられるようになっていた。
彼女は溢れ出ては四方に散らばる水をきちんとまとめあげようと悩んでいるかのように眉間に皺を寄せ、芝生の上に座って噴水を見上げていた。
その瞬間、彼女のきちんとした世界は見えなくなった。
彼女のきちんとした世界が作り上げられてしまう前に、僕は彼女の世界に入り込めるかもしれない。
僕は小さな柵を乗り越え、芝生を駆け抜け彼女の元に走った。
もっとも、もし本当に彼女が噴水から生み出される水と格闘しているのなら、僕は急ぐ必要なんてなかったのだが。
いい天気だね。
僕は彼女の隣に腰を下ろし、彼女に笑いかけた。
ゆっくりと彼女は僕を見た。
あぁ僕は彼女の世界に入り込むことができたのだ。
僕はそれだけで心がむず痒くなった。
どうして君はいつもそんなにきちんとしているの?
僕は彼女に優しく問いかけ、彼女はその口をゆっくりと開いた。初めて間近で見る彼女はとても冷たかった。
ぼんやりとした輪郭。
体温を発しない目。
ぬくもりのない吐息。
その後からやってくる氷のような透き通った声。
僕はこの声をこの先忘れることはないだろう。
彼女の語った言葉ひとつにしても。
失ってしまったものは戻ってこないの。
わかっているけど私は償うことでしかここにいることができないの。
そういって彼女は下を向いた。
氷のような目にかかる真っ黒な睫毛が彼女の球体に無数の影を落とした。
あなたはまだ私と同じ世界にいる必要なんてない人だから、早く戻ったほうがいいわ。
迷惑なのかな?
彼女はかぶりを振った。
いいえ、そうではないけれど・・・・・・。
ただ、あなた達は今やらなきゃいけないことをやらなくちゃ。時間は二度と戻ってこないし、失くしたものも返ってこない。私にはそれが痛いほど分かっているけれど、私はもう償うことに縛られてしまって他には何もできないの。
すべてのことをきちんとすることでしか私の許される道は残っていないの。
ここにいてあなた達を見ていると、とても時間を大事にしているように見えないの。
せっかく未来をいくらでも選べる岐路に立っているというのに。
どんな道にも進める可能性をたくさん持っているのに。
だからどうか、あなただけでも未来のあなたが今を悔やまないようにして。
可能性を自分の手で摘み取ってしまわないで。
僕は時間を無駄にはしていないつもりなんだけどな。
何かに時間を使えば無駄にしていないということじゃないの。
自分の可能性を広げるために何かをしなくちゃいけないの。
どんなことをすればいいのかな?
僕は皆目検討がつかず、彼女に尋ねた。
自分なりに授業にレポートにアルバイトに有意義に時間を使っているつもりだった。
夢を。
こうなりたいっていう夢を作らなきゃ。
そしてそれに向かってやるべきことは自然に分かってくるはずよ。
私は夢を見れなくなって初めてそのことに気がついたの。
彼女はうつむき、小さな涙を落とした。
何かやりたいことがあったんだね?
あったわ。・・・・・・だけど、もう忘れてしまったわ。
僕にも何か夢が見つかるかな?
そうね、私のことを忘れないでいてくれればきっと見つかるわ。
そう彼女が言って、僕の目をまっすぐに見つめた時、噴水は息を止めた。
その時間は短かったのかもしれないし、長かったのかもしれない。
体中が体温を忘れ、まるで彼女と二人、氷の中に見つめあったまま閉じ込められてしまったかのようだった。
さようなら。
彼女の透き通る声が、耳に響き、僕のいた彼女の世界は僕を追い出してしまった。
今まで耳に届かなかった生徒たちの騒がしい声が僕の体を温め、僕の目にはもう彼女は映らなくなっていた。
さようなら。
僕は体温を含んだ声で彼女に別れを告げ、そして腰を上げた。
アルバイトに行く時間が近づいていた。
僕はもちろん彼女のことを忘れなかった。
彼女の姿はあの後何回か見かけたけれど、僕は二度と彼女の世界に入る切符を手にすることができなかった。
かわり僕の手にした夢へと続く切符は、未来の僕のために今切られたところだった。