タイトルの「私の最愛の存在」とは、今月で6歳になる娘のこと。
子を持つ親になって初めて知ったけど、子供って異次元に愛おしい
。
生まれた日から今日までずっとずっとずーーーーっと毎日愛している。
泉のようにとめどなく、娘への愛情が毎日毎日湧き続けている。
もちろん本気でイラっとすることもあるし、大声で叱ることも、なんなら八つ当たりで辛くあたってしまうこともある。
だけど、、、
子を持つ親になって初めて
無償の愛、無条件の愛
がこの世に本当に存在することを知った。
娘は1歳になるころまで、まるで新生児のように1時間起きに目を覚ます子だったし、とてもよく泣く赤ちゃんで私は毎日毎日寝不足。私がそばにいても、後ろを振り向いただけで泣いてしまう程に、本当に敏感で手のかかる赤ちゃんだった。
1歳を過ぎても何をするにもママじゃないとダメ、スーパーで買い物するのにベビーカーを押すのを夫に代わってもらうだけでも嫌がって泣いた。
だけど、どんなに手がかかっても、ただただ娘が怪我しないように、健康に育つように、快適でいられるように、笑顔でいられるように、できる限りのことをした。
なんの見返りもなく、ただただ娘のために愛を注いだ。
というより、私が自分の大切な存在(娘)を大切にしたかったので、そうした結果が、娘に愛を注ぐことだった。
こんなことは初めてだった。
相手から何の見返りや感謝がなくても、自らの意志で奉仕し続けたこと。
まさに、無償の愛。
無償の愛、無条件の愛というものが、この世にあることを体験して知った。
そして、2つの新しい視点を得た。
ひとつめは、
今までピンとこなかった自分がもらっただろう親からの無償の愛というのも、なんとなく想像ができるようになった。
私の両親は商売をしていて忙しかったので、私の話をじっくり聞いたり、折に触れて抱きしめてくれたりなんて、そういう甘い親子関係ではなかったけれど、こうして大人になるまでに、どれだけの手をかけてもらったのか。
娘を育てる毎日において自分がしてきたことを通して、両親の愛に思いをはせる。
何千回オムツを変えてくれたのか
お風呂にいれてくれたのか
仕上げ磨きをしてくれたのか
水さえも自分で飲めなかった
食べることも
服を着ることも
なんにも自分でできなかった私に
たくさんのことを教えてくれた。
そんな愛が私にも注がれていたんだなって思えた。
いつも
お腹がすいたら食べ物があった
サイズの合う服があった
学校で必要なものは全部あった
遠足にもいけたし
お誕生日ケーキやプレゼントのない年は一度もなかった。
どれも、これも、全部が両親からの愛だった。
あ~、今の私は全部愛でできてるんだな。
たくさんの無償の愛のおかげで生きてるんだな。
娘を授かったことで、自分に注がれていた両親からの無償の愛を知った。
つい自己肯定感が低く
「どうせわたしなんて、愛されない」が発動しがちな私だけど、
子供の時の私は確かに無償の愛を受け取る者として存在していたんだな、と。
「愛される価値がない私」として誕生したのではなく、
「無条件の愛を注がれ、それを受け取る私」として誕生し存在した結果、
今の私がいるんだよな。
私の最愛の娘がもし大人になって
「愛される価値がない」なんて思ったとしたら、びっくりしちゃう。
なんて勘違い!
私は娘を今まで体験したことないほど異次元レベルでこんなにも愛しているのだから。
「それ、大間違い!勘違いもいいところだよ!!ママはあなたを愛して愛して愛しまくってる~。価値があるとかないとか、そんなレベルじゃなくて、ただ存在しているだけで愛しいんだよ。あなたという人はそれほどに尊い存在なんだよ」って伝えたいね。
で、私![]()
「どうせ愛されない」「やっぱり愛されない」クセが発動しそうになったら、このことを思い出そう。
もうおばあさんになった母が大人になった私に、今愛してるとか言わないけどね、
でも、確実に私は親から愛を与え続けてもらった結果生きている。
無条件の愛が絶え間なく注がれて今まで私が生きてこれたことを、思いだそう
と、思う。
親に感謝しなくちゃ、という視点より
娘が生まれたことで無条件の愛があるということを知り、
自分は愛される価値がある存在だったんだと、自己肯定感があがったというお話![]()
無償の愛というものが、この世にあることを知って2つの新しい視点を得た、
もうひとつについては、次の記事で![]()
