こんにちはおねがい今日も由希絵の『歴史の窓』へようこそ!

今回も前回の続きで「待賢門院璋子」について語りたいと思います。

 

鳥羽天皇の中宮になった璋子ですが、年下の鳥羽天皇には物足りなく想い、一方父親のように慕い、寵愛されていた白河法皇との関係も断ち切れず流されるまま密通も続けていました。(その神経が信じられないのですが・・・びっくり流されすぎびっくりマークはてなマーク

 

そんな折り、璋子は鳥羽天皇との間の最初の子の顕仁親王を産みましたが、この息子のことを鳥羽天皇は「叔父子(おじご)」と呼び、忌み嫌っていました。

というのも、顕仁親王は鳥羽天皇の息子とされていましたが、実は白河法皇と璋子との間の子であると鳥羽天皇や側近は疑っていたのですガーン

 

その認識は実は白河法皇や璋子達本人にもあったようで、璋子が宿下がりして白河法皇と密会していた時期から逆算すると・・・という状況だったため、当時の絶対権力者であった白河法皇は自分の権力維持のためにまだ若い鳥羽天皇をむりやり退位させ、実質自分の息子であろうと思われる5歳になった顕仁親王を崇徳天皇として即位させて引き続き絶対的権力をふるって院政を続けていました。

璋子は崇徳天皇の生母として『待賢門院』という女院の称号を与えられ、栄華を極めていたのです爆  笑キラキラ

 

それに対して、政治的にも璋子も、絶対権力者白河法皇の言いなりにならざるをえない、みじめな境遇の鳥羽上皇でしたが、それでも美貌と妖しい魅力を持つ璋子の虜となり、白河法皇との関係も気づきつつ、複雑な想いを抱えながらも璋子を寵愛し続け、彼女との間にはのちの「日本一の大天狗」と言われた後白河天皇も含め、5男2女を儲けました。

しかし、まだこの頃は鳥羽上皇も璋子を愛するがゆえ、白河法皇とも璋子とも不思議な三角関係というか表面上と三者とも上手く関係を保っていました。

 

ところが、院政の絶対権力者白河法皇が亡くなると状況が一変し、璋子の人生は暗転しましたえーん

今までの鬱憤を晴らすかのように鳥羽上皇は自ら院政を敷くようになり、親白河法皇派を排除して自らの親政を始めるようになっていき、崇徳天皇と対立するようになりました。息子といえども元々”叔父子”と呼んで嫌っていた天皇と対立するのは時間の問題でした。

 

またその頃になると璋子との仲は冷め、その代わり、藤原得子(のちの美福門院)を寵愛するようになっていきます。

得子は野心家の女性で、自分の権勢のため、そして皇后になるため、また上皇の心の中にまだいるであろう璋子の存在を消すため、邪魔な璋子を追い落とす方法を考えていました。(恐ろしい~ガーンアセアセ

 

そして得子は鳥羽上皇をたきつけ、崇徳天皇を退位させ、得子自身との間に生まれた体仁親王を近衛天皇として即位させ、得子を呪詛する事件が起きた際、ライバルである璋子が黒幕という噂を流して陥れ、璋子は鳥羽上皇の寵愛を失うと同時に権勢を失いつつある自分の立場を痛感し、この世の無情を嘆いて、自ら建立したお寺、

 

 

で出家してしまったのですえーん

 

そしてその3年後、璋子は兄の屋敷で静かに息を引き取ったのですが、臨終の際には、仲が冷え切っていたにもかかわらず鳥羽上皇が璋子のもとへかけつけて、哀しみのあまり大声で泣き叫んだと記録に残っていますえーん

 

こう考えると鳥羽上皇は様々な複雑な思いを抱えながらも、心の底では璋子への愛と憎しみが渦巻いていたのかもしれませんショボーン璋子が自分が思うほど愛してくれなかったことへの怒りと哀しみと悔しい気持ちが・・・得子を寵愛することで、璋子に心から嫉妬してもらいたかったのかもしれません。

一方璋子も本当の意味で人を愛するという意味を知らないまま流されるまま生きてきた哀れな女性だったのかもしれません。彼女は白河法皇と鳥羽上皇、どちらを愛していたのか、それともどちらも愛とは呼べる気持ちではなかったのか、それとも晩年になって鳥羽上皇への愛に目覚めたのか、それは誰も知るよしもありませんショボーン

 

また、佐藤義清という北面の武士が璋子への叶わぬ恋に焦がれ、想いが叶わぬと知ると、ついには出家し西行と名乗り、それでも璋子を想い続けたという話しも有名です。どんだけの美貌で魔性の女性だったのでしょうか・・・ガーン

 

ただ、このいびつな三角関係、得子も入れると四角関係のドロドロの愛憎のもつれが、この後の日本の歴史を大きく揺るがす1156年『保元の乱』を引き起こすきっかけとなるのですガーン

 

得子は自分の息子の近衛天皇が即位すると美福門院という称号を与えられ、璋子が出家した後皇太后となり、鳥羽法皇と共に絶大な権勢をふるうようになります。

近衛天皇の死後、璋子と鳥羽上皇との息子(これは本当に二人の間の息子)の後白河天皇が即位しますが、後白河天皇と崇徳上皇は同じ璋子の息子ですが、父親が違うという噂があり(崇徳上皇の父は白河法皇という噂)、元々兄弟でも仲が悪かったため、朝廷は後白河天皇側と崇徳上皇側に分裂しました。

 

その後鳥羽法皇の崩御後に『保元の乱』が起きますが、この対立は天皇家・関白家・そして武士の源氏と平氏の家中も巻き込み、大規模な乱に発展しました。この中でも美福門院得子が暗躍し、得子の養子であった守仁親王を次の天皇にしたいがために、ライバル璋子の息子でありながら守仁親王の父である後白河天皇に味方したとか・・・人間関係入り乱れ、もう昼ドラ並のドロドロの人間関係ですね・・・ガーンアセアセ

 

この乱で、崇徳上皇側が敗れ、後白河天皇側が勝利し、源氏と平氏といった武士の力で乱が解決したことによって、今まで下にみられていた武士の存在感が増すことになりました!この乱がこれから訪れる長い武家政権へとつながるきっかけとなりました。

 

そういった意味では時代が変わる大きな乱となったのです。そしてその乱を引き起こしたのは璋子と璋子の息子達(崇徳上皇はのちに怨霊となったと噂され、弟の後白河天皇はのちに平清盛に「日本一の大天狗」と言われた政治的才能があった人物)、そして璋子のライバルの美福門院得子という意味では、『待賢門院璋子』という女性は、本人にその自覚はなくても、(無自覚な分罪深いアセアセ)周囲を虜にしたり、嫉妬されたりして日本史をゆるがした哀しき女院であったことに間違いはないでしょう。

 

(待賢門院璋子・完了

 

今日も記事をお読みいただき、ありがとうございましたハートまた次回、お逢いしましょうおねがい