こんにちは今日も由希絵の『歴史の窓』へようこそ
皆様、GWはいかがお過ごしですか?
今日からは、今まで雅な宮廷文化を花開かせていた平安時代中期から(といっても醜い権力争いは繰り広げられていたわけですが・・・)、いよいよ武士の世の中に移り変わろうとする激動の平安時代末期に登場し、愛憎によって歴史を動かした人物を取り上げていきたいと思います
今回取り上げる人物は、鳥羽天皇の皇后だった『待賢門院璋子(たまこ)』です。
璋子は権大納言藤原公実の娘で1101年に生まれました。この時期になると道長・頼通父子によって権力の絶頂期を迎えていた藤原北家によるい摂関政治が、藤原氏を外戚に持たない天皇が誕生したことにより衰退を見せ、その代わり白河上皇が1086年に院政を始めたことにより、上皇が自ら政治を行うようになり、上皇とその取り巻きたちが権勢を振るうようになりました。
(摂関政治にせよ、上皇にせよ、結局天皇は彼らの振り回される存在であったことにかわりはないのですが・・・)
その白河上皇、実は女性に対しては大変手が早く、情熱的で、好色だったと言われています。
60歳を超えても恋愛熱は収まらず、その頃大恋愛をして寵愛したのが20歳以上年下の「祇園女御」という女性でした。
ちなみにですが、このあと時代の主人公となる平清盛は、実はこの祇園女御の妹が白河上皇の種を宿して功績のあった清盛の父、平忠盛に下賜され妻となり、清盛は祇園女御の養子となったと伝えられており、なぜ清盛は当時身分が低かった武士の子なのにあんなに出世できたのか?という疑問に答えることになるでしょう。
清盛と同様、祇園女御の養女になっていたのが、璋子だったのです
当然、当時寵愛していた祇園女御のもとに通っていた白河上皇は幼いころから璋子のことも知っており、祇園女御とともに養女として、また輝くばかりの美しい璋子のことを娘として可愛がっていました
ところが、年月が経って美しく成長した璋子に、ムラムラと欲情してしまった白河上皇がなんと少女になった璋子に手を出してしまったのです 『今鏡』という歴史物語に「足を温めてやる」といって白河上皇が璋子の部屋に昼間っから籠もって出てこなかったと記述されています・・ドン引きですね・・・(もはや犯罪・・・キモい)祇園女御はどう思っていたのでしょう・・・白河上皇の女癖の悪さに諦めの気持ちだったのでしょうか・・・
ところが、普通なら養父だと思っていた上皇からこのような仕打ちをされてショック&嫌がるはずなのですが、不思議なことに璋子は嫌がるそぶりもなく、白河上皇を淡々と受入れつづけ、不毛な関係をだらだらを続けていたのです・・・璋子自身、「来る者は拒まず」という性質と、育った環境や自分の立場を素直に受け止め、それは異常なことではないと感じて生きていたのかもしれません(現代的感覚では信じられな~い)
でも当時の権力者白河法皇にとって、宮中でスキャンダラスな噂になっていた養女との密通はさすがに世間的にも外聞がよくなかったため、璋子を関白藤原忠実の息子忠通に嫁がせようとしましたが、「法皇(この時はすでに上皇から法皇になっていました)が手をつけた女を息子の嫁にはしたくない・・・!」ということで関白忠実は辞退しました(当たり前だとおもうのですが・・・)
そこで白河法皇は自分の孫である鳥羽天皇に璋子を娶るように押しつけました
そのため璋子は鳥羽天皇の妃で中宮になったのです。
しかし、白河方法は鳥羽天皇の妃になった璋子を忘れられず、天皇の目を盗んでは密通を続けていたのです・・・(もう病気・・・)
(次回に続く)
今日も記事をお読みいただき、ありがとうございましたまた次回、お会いしましょう