こんにちは今日も由希絵の『歴史の窓』へようこそ
もう3月に入り、時の流れは早いと感じる今日この頃です
今日のお話は時代が変わり、いよいよ平安時代、舞台は奈良から京都に変わります
ちょうどいま大河ドラマでも平安時代を取り上げていますよね
『平安』という名とは裏腹に、相変わらず権力闘争は続いていきますもうこれはいつの時代でも変わらない・・・色々と考えさせられますね・・・・・
今日取り上げる人物は、都が奈良の平城京から京都の平安京に桓武天皇によって794年に移されましたが、その頃登場した『藤原薬子』という女性のお話です。
藤原氏といえば、以前のブログ『光明皇后』や『孝謙(称徳)天皇』の記事でもご紹介いたしましたが、中大兄皇子と共に大化の改新を成し遂げた「中臣鎌足」が彼の功績により死の間際に天智天皇(中大兄皇子)から「藤原姓」を賜り、鎌足の息子不比等(光明皇后の父)から藤原仲麻呂の乱など色々あったとはいえ、基本的にはずっと権力持ち続けて平安時代まで続いていた状況でした。ただ、藤原不比等の4人の息子達は奈良時代にそれぞれ派閥を作り、南家・北家・式家・京家と呼ばれて、それぞれ牽制しあっていたのです
桓武天皇が都を平安京に移して、「心機一転!!」となるどころか、逆に4家が内部抗争を始めてしまう始末でした
この当時最も優勢だったのは四家のうち「式家」で、藤原薬子はその出身でした。
同じ式家出身の藤原縄主と結婚し、5人の子供を成して幸せな結婚生活を送っていましたが、桓武天皇とともに都遷都事業に邁進していた薬子の父種継が遷都反対派勢力に殺されてしまったのです
そんな時、薬子と夫縄主との間の長女が、桓武天皇の息子で皇太子(春宮)の安殿親王(のちの平城天皇)の妃になるということで母である薬子も娘の付き添いということで宮中に参内しました。
ところが安殿親王は、妃になる予定の薬子の娘ではなく、5人の子供を産んでも容色が衰えず、大変な美貌をもった薬子の方に夢中になってしまい、こともあろうに男女の仲になって寵愛されるようになってしまったのです
これを聞いた桓武天皇は大激怒いくら一夫多妻制で、性にわりと寛容な時代であったとはいえ、妃の母親で夫がいる女性と婿がそのような禁断の恋(今で言う不倫ですな)に落ちてしまうのというのは、許されることではありませんでした
さらに恋に夢中になって薬子のいいなりになっている安殿親王をみて、これ以上藤原式家の力が強まるのを恐れた桓武天皇は、ついに薬子を宮中から追放してしまいました
そして薬子と親王を近づけないように、薬子の夫の縄主をあえて春宮大夫に任命して、親王のそばに仕えさせました(頭いい)
これで安殿親王は薬子のことを諦めてくれるだろうと桓武天皇は思っていましたが、引き離された安殿親王は逆に薬子への思いがどんどん強くなってしまっていました(好きな人と引き裂かれるとますます忘れられなくなってしまいますよね・・・)
そして薬子も藤原式家のために、そして自分の野心や親王への愛のために(夫が可哀想・・・あまりにも、ないがしろすぎる・・・)、けっしてひるむことなく機会をうかがっていたのです
(次回に続く)
今日も記事をお読みいただき、ありがとうございましたまた次回お逢いしましょう