こんにちはおねがい今日も由希絵の『歴史の窓』へようこそ!

またまたまたブログ記事のアップが遅くなり、申し訳ありませんショボーン

もう12月になってしまいました・・・今年も一年が過ぎるのはとても早く感じましたガーン

年末にかけてお休みが長くとれそうなので、もう少しブログ記事のアップも短いスパンでできるように頑張っていきたいと思いますので、これからも応援どうぞよろしくお願い申し上げますニコニコ

 

聖武天皇は元々体も弱く、精神的にも気弱な側面がありました。そのため、賢く美しいやり手の光明皇后に精神的にも頼り切り、また全く頭があがりませんでしたショボーン(まさに超かかあ天下・・・アセアセ

 

加えて、その頃、天然痘の流行や藤原広嗣の乱発生などの政情不安、飢饉など世の中が不安に満ちあふれていました。

そこで、基王の死後、ますます仏教への帰依にのめりこむようになった光明皇后の進言もあり、聖武天皇はみなさん良くご存じの各地への国分寺や奈良平城京に東大寺「盧舎那仏」(大仏様)の造営を命じられたのです。

 

しかし大仏造営が進行している中でも政情不安が収まることがなく、聖武天皇の悩みは尽きず、ノイローゼ気味にもなっていたと伝えられています。そんな苦悩の天皇をひたすらそばで励まし、支え続けていたのが光明皇后でした。(妻の愛愛ラブラブ

 

その間、ほかの妃との間に生まれていた安積親王が亡くなり、聖武天皇も病気で一時は重篤な状態に陥ったり、前の天皇で光明皇后とともに聖武天皇を支えていた、天皇のおばにあたる元正太上天皇が崩御したりと次から次へと辛いことが立て続けにおこり、かな~り心神喪失状態になってしまった聖武天皇は光明皇后や周りの慰留を断ってついに、光明皇后との間の娘「阿倍内親王」に譲位することをきめました。これが第46代「孝謙天皇」(女帝)の誕生となりましたキラキラ

 

でも天皇家って本来「神道」の神「天照大神」様を祀っていたのに国のお金を使って大仏様を造って大丈夫?と懸念の声もありましたが、聖武天皇は「宇佐八幡宮」に使者を送り、「どんどんやりなさい」と神託を受けて、OKもらったそうです・・・神様は寛大ですねキラキラキラキラ

(ってゆーか、聖武天皇も自分の意思で決められない、かなり気弱な面があったというか・・・ガーン

このころから、日本では異なる宗教や風習でも仲良く共存しあう今現在の土壌ができてきたと考えられています。

(クリスマスはキリスト教、除夜の鐘は仏教、お正月の初詣は神道などなど・・・)

 

その後752年についに東大寺大仏の開眼法要を行い、その2年後には唐の名僧:鑑真が来日、聖武上皇と光明皇太后は鑑真と会うことができましたキラキラ

光明皇太后もさぞや感動したことでしょうビックリマーク

 

光明皇太后は聖武天皇を影で動かす「実質的な権力者」の側面があった一方、皇后になってから施薬院を開いて諸国の薬草を集めて貧しい病人に与えたり、貧しい民や孤児を救済するために悲田院を設置したりと福祉事業にとても力を入れた人でもありました。

 

こんな逸話も残っています。

「人々の為に千人の体を洗いなさい」と仏様からの不思議な声を聞いた皇后は、おつげどおりに大きな蒸し風呂を造って民の体を丁寧に洗っていました。

999人目を洗い終えたあと、1000人目に

すごいひどい匂いがした病人が目の前に現れました。

周りの人達はその匂いにおののいて近寄れませんでしたが、丁寧に体を洗い、その病人の要望に従い光明皇后が率先してその病人の膿を吸うと、その病人の体がみるみるうちに美しく変化し、光明を放って仏の姿にかわり、天に昇っていったというお話です。

そのお話が言い伝えられているくらい、民のことを考えて心優しくて美しい女性であったとも言えます。また彼女は達筆だったとも言われています。

 

聖武天皇が亡くなった後、光明皇后は聖武天皇や彼女が愛用した生活美術品を中心とした宝物を正倉院に納めました。

その中には彼らのベッドも納められているそうです。しかもそのベッドカバーの長さから考察してダブルベットにしていたと考えられる長さだったとか・・・ラブラブ

長い夫婦生活の中、心の行き違いもあったかもしれませんが、生涯二人はラブラブハートなご夫婦だったことがうかがえます。

 

その後光明皇太后は娘の孝謙天皇の後ろ盾となり、天皇を支え続けたが、病気でなくなり、聖武天皇の隣の陵に陵が造営された。彼女の願いだったようです。

 

奈良の東大寺や正倉院などに行く機会があれば是非、光明皇后の人生や愛を感じながら見学してみたら、より深いロマンを感じられることでしょうラブキラキラキラキラ

 

(光明皇后・完了

 

今日も記事をお読みいただき、ありがとうございましたハートまた次回、お逢いしましょうおねがい