こんにちはおねがい今日も由希絵の『歴史の窓』へようこそ!

 

最近記事の更新が仕事が多忙および体調が優れない事が多く、ご無沙汰になっていて申し訳ありませんでした。最近は仕事も体調もだいぶ落ち着いてきて、GWに入って少し時間の余裕もできましたので、今日も前回の額田王のつづきを語りたいと思います。

 

時は流れ、共に大化の改新で手を携えていた同志の中臣鎌足がなくなり、

天智天皇(中大兄皇子)も病で床につくことが多くなりました。天智天皇はみなから後継者とみなされていた弟の大海人皇子ではなく自分の子供の大友皇子を後継者にしようと、天皇と大海人皇子の間を上手くとりもっていた鎌足が亡くなったあとはあからさまな態度で示すようになり、大海人皇子は危機感を募らせていました。ただ大友皇子の母親は身分の低い采女だった女性で、大海人皇子の母親は天智天皇と同じ皇極(斉明)天皇でしたので、当時は母親の身分によって地位が決まり、天皇の弟ということから、世間の誰もが大海人皇子が正式な後継者とみなしていたのです。

 

これより前に天智天皇の命令で額田王と大海人皇子との間に誕生して、額田王が天智天皇の妃になってからは大海人皇子のもとで育てられていた十市皇女が大友皇子のもとに嫁がされていました。

額田王は父と夫との対立や異母兄の高市皇子との恋を引き裂かれてしまったことで胸を痛めていた娘の十市皇女のことが心配でなりませんでした。

 

このままでは息子の大友皇子を後継者にできないと思った天智天皇は、病床に大海人皇子を呼び出して「自分が亡くなったらおまえが後を継いでほしい」と頼みました。

しかしこれは罠で、もし承諾したら、その場で反逆罪ということで大海人皇子を殺すつもりでした。

 

しかし危険を察知した大海人皇子はその申し出を断り、「政治に興味はもうないので、これからは出家した吉野山にこもります」と兄に告げて、その場を去り、難を逃れたのです。

そこまで言われては天智天皇も大海人皇子を討つ大義名分がなくなり、そのまま行かせるしかありませんでした。

 

ほどなくして天智天皇は大友皇子を心配しながら崩御しましたショボーン

額田王には娘の十市皇女と孫の葛野王の将来を心配し見守るしかありませんでした。

 

その後、近江朝廷の家臣達の間では大海人皇子を滅ぼそうという動きがみられた為、大海人皇子は自分に味方してくれる皇族や家臣達を集め、「やられる前にこちらから先手を打とう!」ということで吉野で672年に挙兵しました。

これを日本古代史最大の戦となった『壬申の乱(じんしんのらん)』といいます。

元々の兄と弟の不仲の遠因は額田王だったというのも『二人の皇子の愛』から生じたゆえんですねショボーン

 

初めは大海人皇子側の戦力は少なかったのですが、亡き天智天皇や近江朝廷側に不満を抱えていた皇族や豪族達が次々と大海人皇子側につくようになり、最終的には大海人皇子側陣営が勝利しました!

 

元々、大化の改新から兄の天智天皇を支え、政治経験も豊富で人望もあり、血筋も問題ない大海人皇子と、まだ若く経験不足で天智天皇の後押しがありながらの政治を行っていた大友皇子とでは最初から勝負の結果は見えていました。

 

大友皇子が自害をして壬申の乱は終結し、翌年673年に大海人皇子が飛鳥浄御原宮で「天武天皇」として即位し、その後天武天皇は皇族を中心とした天皇政治・中央集権体制を強化していきました。

 

壬申の乱の後、敵の大友皇子の正妻でありながら天武天皇と額田王との間の娘十市皇女は、天皇の娘として命は助けられ、息子の葛野王と共に天武天皇に引き取られました。天武天皇は額田王との間の娘十市皇女をことのほか可愛がっていたからです。

それに伴い、額田王も十市皇女と葛野王と共に飛鳥浄御原宮へ移り住み、天武天皇からは丁重な待遇を受けたと言われています。

 

この頃になると、天武天皇と額田王の間には、昔のような情熱を持ち続けていたというよりは昔なじみの友人といった関係だったのかもしれません。

 

ただ通常は現政権の敵である近江朝廷の天智天皇の妃の一人だった女性がこのような丁重な待遇を受けることはありえませんが、特別待遇を受けて静かに平穏に暮らせたということは、娘の十市皇女の母親ということだけでなく、天武天皇の心の中には昔、兄の命令で別れざるをえなかった未練や後悔と額田王に対する罪悪感や罪滅ぼしの気持ちがあったのかもしれません。

 

ただし、敵方だった近江朝廷の王の妃の一人だった額田王と再婚すれば、この壬申の乱の正当性が疑われてしまうため(元妻の額田王や大友皇子の正妃だった娘の十市皇女が大海人皇子(天武天皇)に内通したから、この壬申の乱で勝利したと世間的に見られてしまうため)政治的な理由で復縁することはありませんでした。

 

その数年後娘の十市皇女が十市の異母兄高市皇子との恋仲の噂が世間に広まることを恐れた父天武天皇の命令で泊瀬倉はしの宮の斎宮として出立する当日、急死してしまった事を境に、愛娘を失った悲しみのあまり朝廷への出入りをやめ隠居してしまった額田王が再び表舞台に出てきたのは、天武天皇の死後、持統女帝の吉野行幸に同行した弓削皇子から贈られた歌に関する返歌が万葉集に残っています。返歌の作成年から、額田王は60代だったことがうかがえます。当時としてはすごく長生きしたのですねびっくりマーク

 

弓削皇子が亡き父天武天皇を偲び、父の時代を懐かしむ歌を額田王に贈ったところ、額田王は

次の歌を返しました。

 

『古に恋ふらむ鳥はほととぎす けだしや鳴きし我が思へるごと』

(遠い昔を恋い慕って飛ぶという鳥は ホトトギスですね。ホトトギスは確かに鳴いていましたね。私が昔を偲んでいるように。)

 

この歌はかつて愛した夫、大海人皇子(天武天皇)を思い、偲ぶ歌として万葉集に残されています。

この返歌が天才歌人、額田王の生涯最後の歌でした。

 

やはり額田王にとって最初の夫、大海人皇子(天武天皇)は様々な愛憎を超えて生涯最後まで特別な存在かつ『大切な人』であり、大海人皇子にとっても額田王は同様に生涯の恋人であったのでしょうハート

 

額田王~二人の皇子(後の天皇)に愛され、運命に翻弄されながらも自分の意志を強くもち、揺らぎない愛の心で動乱の時代を強く生き抜いた賢く美貌の天才歌人キラキラそんな彼女のすがすがしい生き方は今の時代の女性の生き方にも大きな勇気を与え、今もなお魅了し続けていますラブラブラブラブラブラブ

 

(額田王・完了

 

今日も記事をお読みいただき、ありがとうございましたピンクハートまた次回お逢いしましょうおねがい