こんにちはおねがい今日も由希絵の『歴史の窓』へようこそ!

 

今日は、古代中国で項羽という有名な武将の寵姫だった虞美人(ぐびじん)について語りたいと思います。

 

私がこの人物を知ったのが、高校時代に国語の教科書に載っていた項羽と劉邦の物語と「垓下歌」からで、その後興味をもって色々調べたり、その時代のドラマなどを見るようになりました。

 

紀元前221年に秦の始皇帝がはじめて中国を統一して「秦」王朝を樹立したのは皆様も世界史で勉強したと思います。

ただ始皇帝の死後、秦の力は衰え、しかも秦の支配は民衆に過酷な労役を課すなど民を苦しめるものだった為、民衆の間で不満が高まり、中国各地で反乱が勃発するようになります。

カリスマ的な支配者が亡くなり、その後継者が力がない人となると必然的にそうなりますよね・・・会社とかでもカリスマ社長がなくなり、跡継ぎが力量がない人がトップになると派閥争いが勃発するのと同じようにショボーン

 

そのような中登場してきたのが、楚の国の武将である項羽と劉邦です。

二人は力を合わせ反乱軍を束ね、ついに「秦」王朝を滅ぼします。

 

しかしその後、「西楚の覇王」と称した項羽と漢王を名乗るようになった劉邦は対立を深めていきます。武勇や軍略で力のあったのは名門の家系の項羽の方で、秦を倒したのも項羽の力量の方が大きかったのに対し、劉邦は農民出身で武力や軍略などはそれほどなく平凡な人物で、町中をおさめる「親分」みたいな風情でしたが、人情があり政治力および人の心を読むのは劉邦の方が長けていました。

 

そのような項羽と虞美人がどこでいつ知り合ったのかは中国の書物『史記』や『漢書』などにも記載がなく、定かではありません。ただ、虞美人はとても美人で聡明な女性で、項羽から大変愛され、また虞美人も項羽を愛し、戦場でも常に項羽のそばで一緒に行動を共にしていたそうです。

危険な戦場でも常に一緒にいてそばを離れないなんて、二人の愛の強さを感じますねラブラブラブラブラブラブ

 

項羽と劉邦の争いは最初は武勇に優れ戦闘に強い項羽が圧倒的に優勢でした。しかし項羽は次第に傲慢になり、勝利するたびに敵の兵士や民衆を殺し、家臣の忠言も聞かず、また戦に勝利しても家臣への論功行賞が上手くいかず、恐怖政治で押さえつけていたものの、次第に人々の心は項羽から離れていってしまいました。しかし項羽は最後の最後までこのことに気づくことはありませんでした。

 

一方劉邦の方は、武将や民衆の心を上手くつかみ、政治力と人の心を上手く読む力と人に手を貸して貰うことに秀でていたことから「人たらし」と呼ばれ、劉邦の周りには優秀な人材や兵が徐々に集まり、人々の項羽への不満勢力を取り込み、その兵力は項羽をしのぐほどに膨れ上がっていきました。劉邦は自分の能力を過信せず、優秀な部下の進言を受け入れる度量の持ち主でした。

 

そして紀元前202年、ついに項羽は劉邦軍の兵士たちに垓下(がいか)という場所への追い詰められてしまいました。この『垓下(がいか)の戦い』は初めは項羽軍が優勢でしたが、劉邦軍の知将「韓信」の知略や活躍などにより最強の武将項羽は生まれて初めて戦に敗れてしまいます。

 

項羽はやむなく兵を引かせ、垓下の城塞に立てこもりました。

 

その時に劉邦軍はある心理作戦を仕掛けます。

それは、項羽に心理的ダメージを負わせるため、兵士たちに、項羽の故郷、「楚」の国の歌を歌わせることでした。この作戦は見事成功びっくりマークこのときになって初めて項羽は、自分の故郷の「楚の国」も、そしていままで自分の味方だった「楚の人間」までもがすでに自分を見限り、敵になってしまったことをようやく悟ります(遅すぎるっつーのびっくりマーク

「ああ・・・自分の周りはすべて敵だらけだ・・・」

このことから生まれた四字熟語が、まさに『四面楚歌』(まわりはすべて敵だらけの意味)なのですびっくりマークびっくりマークびっくりマーク

今の時代でも使う、有名な四字熟語ですよね。これはこの項羽の哀れな状況から生まれた言葉なのですえーん

 

この劉邦軍の作戦は項羽に心理的ダメージを与えただけでなく、項羽の陣営の士気を著しく低下させ、項羽の身内や家臣、兵士たちが続々城から逃げ出していってしまいました。

 

こうした状況をみて、ついに項羽は自分の最期を悟ります。

そして愛妾(正式な妻ではなかったもよう・・)である虞美人を呼んで、愛馬の駿と共に

別れの宴席を開きます。

 

この宴席で項羽と虞美人が詠んだ詩が、かの有名な『垓下(がいか)の詩』です。下矢印

(詳細が記載されているのですごく参考になると思います!!)

 

この項羽の詩から読み取れるのは、この時になっても項羽は「自分には優れた力があるのに

今回の敗北は時勢が味方しなかった」と思っており、敗因をきちんと分析仕切れていないなぁ~

と思いました。たしかにそうかもしれないけど、自分の力を過信せず、もっと謙虚に人の話に耳を傾け、民衆を大事にしていたら、こんなことにはならなかったのではないかなぁと優秀な武将だっただけに残念な感じがしてなりません。

 

ただ虞美人にとっては、自分を大事にして愛してくれた男性であり、彼女にも決断の時が

迫っていました。

項羽は愛する虞美人を死なせたくはなかったので劉邦への降伏を勧めましたが、虞美人は断固

として拒否しました。この時代、自分の夫や恋人が殺された場合、敵方の武将に手込めにされてしまうことが多く、生き残る為には自分の体を差し出すことも珍しいことではありませんでした。

なにせ劉邦は名うての女好きで、たしかに劉邦に情けをかけてもらえたら命は助かるかもしれ

ませんが、辱められるのは耐えられず、虞美人の項羽への愛と誇りがそれを許さなかったの

でしょう。虞美人のその気持ちと自分への愛を再認識した項羽はただただ虞美人を哀しく抱きしめ

ました。

 

虞美人は愛する人が最期まで存分に戦えるよう、自分が足手まといにならないように項羽が

少し目を離したすきに、もっていた短刀で自害してしまいましたえーん

その亡骸を抱えながら「虞や~虞や~泣泣泣泣泣」と項羽は泣き叫びました。

 

そして最期は少ない兵で劉邦軍に突進して懸命に戦いましたが、気力も果て、旧知の武将呂馬童に手柄を取らせるため烏江という地で自らの首をはねて亡くなりました。まだ31歳の若さでした。

 

その後、劉邦は中国統一に成功して紀元前202年漢王朝を樹立し前漢初代皇帝に即位し(漢の高祖)、都を長安に定めました。

漢王朝は、この劉邦が開いた前漢と、いっぱん滅亡した後劉秀によって再興された後漢王朝と

合わせて、約400年も続いた長期王朝となりました。

この劉邦が樹立した「漢王朝」から中国全土や中国の主要民族を指す名称として「漢」という

言葉が用いられることになりました。

今私達が書いている「漢字」もこの「漢王朝」が由来となっていると思うと、今から約2000年

以上前の出来事が今につながっていると思うと、ほんとすごいことだなぁと思います。

 

もし劉邦が負けて項羽が勝っていたら、違う王朝の名前(おそらく「楚王朝」)だっただろうし、

「漢字」という文字も、なかったかもしれない。または「漢字」という読み方ではなかったかも

しれませんから・・・。

 

不思議なことに、虞美人を葬ったお墓のまわりに翌年の夏、赤いヒナゲシの花ハイビスカス

咲いたと言われています。

この伝説から、ヒナゲシの花は『虞美人草』とも呼ばれるようになりました。

ハイビスカスヒナゲシの花(虞美人草)はコチラ下矢印

 

 

この話を知ったときから、ヒナゲシの花と聞くと、真っ先に『虞美人』のことを思い起こすようになり、切ない気持ちになりましたえーん

愛する人の為に、彼の妨げになってはいけないと自ら命を散らせた薄幸の美人、虞美人のことを泣

『愛』って本当に切ないものですね・・・。でも彼女は最後まで自分の愛を貫いた意志の強い女性だったと思います愛

 

今日も記事をお読みいただき、ありがとうございましたピンクハートまた次回お逢いしましょうおねがい