こんにちは今日も由希絵の『歴史の窓』へようこそ
今日は聖徳太子の妃の一人である橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)と天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)について語りたいと思います。
天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)は皆様教科書や図説などでご覧になったことはある方多いと思います。
こちらです↓
奈良の中宮寺が所蔵する国宝ですね!
これは聖徳太子の妃の一人であった橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)
が夫・聖徳太子の死を悼んで作らせたものだと言われています。
中宮寺や橘大郎女については、前回や前々回の私の聖徳太子の記事の中でも若干触れさせていただいております。
橘大郎女は推古天皇の孫にあたり、当時の権力者蘇我馬子を牽制(けんせい)し、聖徳太子との結びつきを強める為に祖母の推古天皇の強い推しと勧めで、政略結婚的な形で聖徳太子の妃になりました。
とはいっても橘大郎女は太子のことをとても慕っていて妃になれたことを喜んでいたのですが、太子は同じ政治的パートナーである叔母の推古天皇の孫の橘大郎女を大切にはしてくれていたものの、最愛の妃である膳部菩岐々美郎女に夢中だったため、彼女は寂しさと膳部菩岐々美郎女への嫉妬の感情が入り交じり、複雑な思いを抱き続けていたように感じます。
というのも、この天寿国繍帳の碑文には「聖徳太子の母の穴穂部間人皇后が621年の12月に、その年が明けた翌年622年の2月に太子が相次いで亡くなったことを橘大郎女が大変悲しみ嘆き、『太子様が天寿国(阿弥陀仏が住んでいる西方極楽浄土)に往生されたが、そのお姿がみえないから、せめて図像によって太子様が往生された様子をみたい』と推古天皇に訴え、同意して采女らに命じてこの『天寿国繍帳』を作らせた」と記載されているのですが、この文章だと太子が亡くなる前日に亡くなった膳部菩岐々美郎女の名前が一切出てこないのです
義理の母である穴穂部間人皇后と夫の聖徳太子の死については大変悲しみ嘆いているのに・・・
もし恋のライバルである膳部菩岐々美郎女と同じ夫を持つ妃として認め合い仲良い関係だったら、彼女の名前も碑文に出てくるんじゃないかと思うんです。
このことから色々なことが想像でき、様々な見方ができるかと思いますが、私は橘大郎女が、太子とほぼ同時期に旅立って同じお墓にまで入る約束までした自分より身分の低いのにも関わらず最も太子からの寵愛受けて子だくさんの膳部菩岐々美郎女への嫉妬と、「自分は太子様のことを想って、自分の高い身分でこれだけの素晴らしい繍帳を作り上げることができるのよ」「私が誰よりも太子様のことを想っているのよ
膳部菩岐々美郎女、あなたには太子様への想いでは決して負けない
あなたの名前は絶対この碑文には載せない
」みたいな夫を愛するゆえの哀しい女の意地やプライドを感じずにはいられませんでした。
もし自分が橘大郎女の立場だったら、そのように想うのも仕方のないことかなと思います。
同じ女性として・・・だっていくら夫を強く愛していても、夫はもう別の妃を寵愛し続けているのですから・・・大切にされているのと心から愛されているのとは違いますものね・・・なんだか切ない感じもしますが・・・。
それだけ太子への愛が強かったということかもしれません。それゆえに人間は愚かになったりもしますから・・・。
このように橘大郎女の想いを色々と想像してみながら、この『天寿国繍帳』を見てみると、より深く心に入り込みながら鑑賞できるのではないかと思います。
そして彼女の太子への愛惜の想いによって、この国宝『天寿国繍帳』が誕生したと思うと、まさに歴史ロマンを感じずにはいられません
奈良の中宮寺に行く機会があれば、太子が母を想って作らせた『半跏思惟像』と共に、この橘大郎女の想いを踏まえながら是非この天寿国繍帳も見てみたいと思います
今日も記事をお読みいただき、ありがとうございました
また次回お逢いしましょう