こんばんは今日も由希絵の『歴史の窓』へようこそ
今日は聖徳太子が最も愛した妃と言われる『膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)』について語りたいと思います。
聖徳太子には4人の妃がいたと言われています。
蘇我馬子の娘の『刀自古郎女(とじこのいらつめ)』、推古天皇の娘『菟道貝蛸皇女(うじかいだこのひめみこ)』、推古天皇の孫『橘大郎女(たちばなのおおいらつめ』そして今日の主人公である地方豪族の娘である『膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)』です。(みんな名前の読み方が難しい)
膳部菩岐々美郎女以外の3人の妃たちは、当時の権力者蘇我馬子の娘だったり推古天皇の娘や孫であったりと身分がとても高く、太子の意志というよりかは、政治的な理由で太子との結びつきを強めたいと考えた推古天皇や蘇我馬子の強い推しで政略結婚的な形で結婚したのに対し、膳部菩岐々美郎女については、太子が一目惚れして、自ら心惹かれて娶ったと言われています
二人の出逢いは、太子が行幸しているとき、偶然、一人で一生懸命、芹を摘んでいる美しく若い女性を見かけて、太子が声をかけると、「家族が病気なので治るよう心を込めて芹を摘んでいた」とその女性は答えたと言います。その美しくけなげな姿と家族思いの優しい心根に太子のハートは射貫かれ、是非とも自分の妃にしたいと強く願うようになったとの伝説があります。
その後二人は太子の熱烈なアプローチが実を結び、ついに妃として迎えることになりました
太子様ったら、純愛すぎます
膳部菩岐々美郎女は結婚後も以前と変わらない謙虚さと優しさで太子を支え、太子も彼女を生涯最も信頼して寵愛し続け、二人の間には4男4女の合計8人も子供をもうけます
身分の低かった女性は歴史上、権力者の妻になると自分の地位を勘違いして、横柄な態度に代わったり権力欲にとりつかれて豹変する人達も結構登場しますが、きっと膳部菩岐々美郎女はそのようなことはなく、太子と結婚する前と変らない、素直で優しく誠実な女性で生涯誠心誠意太子を支え続けていたゆえ、太子から生涯愛されたのだと思います(これは現代でも通ずることですね・・・愛され女性として幸せに過ごす秘訣かも)
そして何と太子は膳部菩岐々美郎女に「亡くなった後も同じお墓に入って、来世も共にしよう」と伝えたとも言われているんですなんてロマンチック~(今日はハートの絵文字ばかり)本当に太子の彼女に対する激愛ぶりがすごすぎます
こうして幸せに暮らしていた二人でしたが、晩年は蘇我馬子との政治的な対立により自分の理想とした政治が中々できないもどかしさから太子は悩み苦しみ、物思いにふけることが多くなってしまします
そんな辛そうな太子を側でみている膳部菩岐々美郎女もさぞや辛かったのではないかと想います。
だって愛する夫が苦しんでいるのをそばで見守るしかできないのですから・・・。
その後太子が大切にしていて母の間人皇后が病で亡くなり、そのショックからか太子も病にかかって倒れてしまいます。膳部菩岐々美郎女は懸命に太子を看病していましたが、無理がたたって膳部菩岐々美郎女も同じ病にかかって倒れてしまいます
そしてついに膳部菩岐々美郎女が亡くなり、その翌日に太子も後をおうように亡くなってしまいます膳部菩岐々美郎女が亡くなったことを聞いた太子は、膳部菩岐々美郎女と離れたくないと強く想ったのか翌日には病で亡くなったと言われています。偶然なのか、運命なのか・・・それでも愛する夫婦はほぼ同じ時期に天に召されて幸せだったことでしょう
生前の約束どおり、聖徳太子と膳部菩岐々美郎女は、磯長陵に母の間人皇后と共に合葬されていると言われています。亡くなった後もずっと一緒に眠っているのですね
二人の愛は永遠となり、今に語り継がれています
今日も記事をお読みいただき、ありがとうございました
また次回お逢いしましょう