こんにちはおねがい

今日は聖徳太子の母への思慕について語りたいと思います。

 

聖徳太子は飛鳥時代の推古天皇の摂政を務め、小野妹子を当日の中国、隋に派遣した「遣隋使」や「冠位十二階制」「十七条憲法」を制定するなど天皇を中心とした中央集権国家の基礎を作った現代でも超有名な偉人の一人ですキラキラ厩の戸口で産気づいて生まれた立ち上がることから『厩戸皇子(うまやどのみこ)』とも呼ばれ、一度に10人の訴えを聞き分けた、未来を予言できた、生まれながらに言葉が話せたなど、様々な超人的エピソードがたくさん・・・ものすごく聡明だったと言われています。

彼が生まれる前、母の間人皇女の夢に仏様が出てきたという逸話もあります。

 

そのような太子ですが、両親、特に母親への思慕はことのほか強かったようです。

母親の穴穂部間人皇女が夫が用明天皇として即位すると皇后に即位します。

その後用明天皇が亡くなった数年後に、こともあろうに父、用明天皇の別の妃、石寸名(いしきな)との間に生まれた、第一皇子の田目皇子と再婚してしまいますガーン石寸名は間人皇女よりも先に用明天皇に輿入れしていました。

 

間人王女からみた田目皇子は義理の息子、聖徳太子からみた田目皇子は義理の兄となるわけですよね~もう人間関係が複雑すぎるびっくりマーク

 

今は3親等以内の人達との婚姻は禁止されていますが、この時代は同母の兄妹でなければ義理の兄妹などの結婚は普通に行わ、許されていましたびっくりもちろん、この時代でさえも、同母同父兄弟姉妹の間との結婚は禁忌(タブー)です。父の用明天皇と母の間人皇后も実は欽明天皇の子供で異母兄妹だったのです。(二人の母はそれぞれ蘇我氏の娘で蘇我馬子の姉妹)。ただこの時代でさえ義理の息子との婚姻は珍しかったようです・・・びっくり

 

このことに思春期だった聖徳太子はひどいショックを受けたと言われていますえーん

父親も母親も大好きだったゆえに、「父親がかわいそう」「大好きだった母親に裏切られた」

このように感じてしまったのかもしれません。思春期の男の子にとっては、母親が父とは別の赤の他人の男に取られた!と思って悲しかったことでしょう。

その上、再婚した二人の間に佐富王女立ち上がるまで生まれて、太子の胸はさぞや複雑だったことでしょう。このことが聖徳太子が仏教にのめりこんでいったきっかけになったという説もあります。

 

しばらく母親に愛憎や複雑な思いを抱き続けたかもしれませんが、それは母への強い思慕の裏返しでもあり、生涯母親を大切に思っていたようです。

なぜなら、太子は母親の宮を寺に改め、母の為に『中宮寺』という尼寺まで建立しているのですニコニコ

 

今でも安置されている中宮寺の国宝『半跏思惟像』を実は去年、私が住んでいる地域の博物館で特別展が開催されていて、生で見てきたんですびっくりマーク

その仏像は物思いにふけているお姿が表現されているのですが、すごく優しそうな笑みを浮かべられて、不思議とずっと見ていたいと思えるような雰囲気の菩薩像でしたキラキラキラキラキラキラ

 

私は太子が母親への思いを強く込めて母親の姿を重ねてこの菩薩像を作らせたような気がしてなりませんでした。

 

聖徳太子が推古天皇の摂政になって、次第に叔父の蘇我馬子と対立するようになって悩み苦しんでいる時期を母の間人皇后はずっと心配して見守ってきていたと思います。その間思春期の時に感じた複雑な思いはとうに消え去っていたことでしょう。

間人皇后が亡くなった事にひどいショックを受けた太子はそのわずか数ヶ月後に病で亡くなったと言われています。

 

この聖徳太子の母への思いを知ってからこの菩薩像を見ると、より深いものを感じられると思います。是非奈良に行ったら、中宮寺を訪れてみたいものです。

 

 

今日も記事をお読みいただき、ありがとうございましたピンクハート

また次回お逢いしましょうおねがい