今から63年前、私の義祖母と義父は広島で被爆しました。
(義祖父は出兵中で広島にはいませんでした)
8月6日の朝、義祖母は当時まだ5歳だった義父が部屋で遊んでいるのを眺めながら、いつものように軒下で洗濯物を干していたそうです。
そして8時15分、原爆が投下されたのです。
広島では原爆をその光と衝撃波から「ピカドン」と呼んでいますが、まさにその通りだったそうです。
義祖母は爆風に吹き飛ばされ、身体には無数の窓ガラスの破片が突き刺さり、血だらけになったそうです。
でもそれで義祖母は命拾いしたのだと言います。
きっとそれが身体の中の悪いものを流してくれたのだと。
「あなたは無傷で良かったね」と声をかけた隣の奥さんは、その後すぐに亡くなられたそうなのです。
洗濯物を干していた軒下が爆心地と反対方向だったことも義祖母にとって幸運でした。
義祖母はすぐに瓦礫の中から義父を助け出し、その場を離れました。
水を求めて、川へ向ったのです。
しかし、そこで義祖母が見たものはまさにこの世の地獄でした。
(私達にとっては衝撃的な原爆資料館やテレビ等で目にする光景すら生ぬるい、と義祖母は言います。60年以上経った今でも、その光景はもちろん、臭い、熱、助けを求める人々の声は決して薄れることなく義祖母の脳裏に焼きついているんだと思います。)
義祖母は川岸まで辿り着いてついに歩けなくなり、その場に倒れこんでしまいました。
そしてそこへ通りかかった人に、
「私はもう動けません。この子を警察に連れていってください」
と頼んで5歳の義父を渡し、そのまま意識を失ったそうです。
義祖母は言います。
「普通じゃ考えられないことだけどね、見も知らずの他人に我が子を託すなんて。でもその時は、帰ってくるお父ちゃんのためにもこの子だけは生き残って欲しいと必死だったんよ。」
それからどのくらい時がたったのか、義祖母は誰かに抱き起こされる感覚で意識を取り戻しました。
それは、まさに、死体を収容して回っている荷車に積まれそうになっていたところでした。
義祖母は出るか出ないかの声で必死に言いました。
「私はまだ、生きています。」と。
するとその人は気付いて、またそのまま道端に寝かされたそうです。
義祖母は「このままだといずれあの荷車に乗せられることになる」と思い、残った力を振り絞って歩き始めました。(この時義祖母が諦めていたら、今の私達はありませんでした。)
そして数日かかって、ようやく山向こうの親戚の家まで辿り着いた義祖母を待っていたのは、
もう自分は駄目だと思った川岸で、他人に託した我が子(義父)だったんです。
その通りがかりの人は、混乱の中にも関わらず、本当に親切に義父を警察まで連れていってくれていたんです。
そして義父は当時まだ5歳だったのに、自分の名前を言い、近くに親戚がいることを言い、警察に親戚の家まで送り届けてもらっていたのです。
義祖母は「心細かっただろうに」と涙を流して喜んだそうです。そして名前も分からない(名前すら聞いていなかった)通りすがりの人に感謝し、もう二度と義父を手離すことはしないと誓ったそうです。
こうして義祖母と義父は原爆を生き延び、やがて戦争は終わりました。
義祖父は戦地で広島に原爆が投下されたことを知り、絶望で帰国しましたが、義祖母と義父が生きていることを知り、「よくぞ生きていてくれた」と涙を流したそうです。それは義祖母が見た最初で最後の義祖父の涙だったそうです。
これが、私が義祖母から聞いた、義祖母の1945年8月6日です。
聞いたことをそのまま淡々と書く形になりました。
でも、これが事実なんです。