こんにちは
☀️🌴🌺🌈
50歳からの
『デザートライフ』
人生の絶頂期を迎えよう!
を提唱致しております
椿姫よよこです。
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今日は「ジャッジする事」について書いてみました。
少し長くなってしまいましたが、よろしくお付き合いください。
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今日、とんでもない人に遭いました。
「恩を仇で返す人」
こちらが警察に通報すれば、背後に手が回るという案件。
しかし、イケシャーシャーと平然、しかも悪びれた様子がありません。
「世の中、こんな人もいるんや…」
と、唖然呆然。
コトは未然に防がれ、被害はなかったので助かりましたが、ここのところ、こんな《ありえない》人に関わっている(正確には関わっていた)ことが気になりました。
もちろん、その全てが疎遠になる段階での出来事なので、サヨナラの通過儀礼だと捉えてはいますが、それだけで終わらせるには、ちょっと多過ぎる数でした。
ひとりひとり、名前を思い出しながら指を折ると…
ここ半年で、10人です。
10人って、多過ぎませんか?
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振り返れば、この《ありえない》人たちの共通点。
大きいくくり・カテゴリーで言えば「弱さ」なのかな?
色々な場面を思い出した時、その根底にあるものが「弱さ」なら、しっくりきました。
弱さゆえの「被害妄想」
弱さゆえの「嘘」
弱さゆえの「誤魔化し」
弱さゆえの「ゴマスリ」
弱さゆえの「二枚舌」
弱さゆえの「自己防衛」
弱さゆえの「太鼓持ち」
弱さゆえの「マウンティング」
弱さゆえの「恫喝」
弱さゆえの「恩義せ」
弱さゆえの「狡さ」
弱さゆえの「犯罪」
弱さゆえの、弱さゆえの…
「弱さ」を、見せられていることに気がつきました。
わたし自身、助けて欲しいのに、それを言えず弱味を見せずにガムシャラにやってきたタイプでした。
ですので、弱さを武器にして、例えば、ゴマ擦ってる人を見ると、嫌悪しかなくて…
嫌悪しながら、実のところはちょっとだけうらやましかったりします。
「なんやねんアイツ!」
と、思いながら
「あたしも素直に助けてぇーっ!って言いたい!!」
が、本音ですから(笑)
そこは、もうとっくに認めました。
ですので、そういうタイプの人と関わった場合、
「そんな人もいるよねー」
と、理解していたつもりでした。
でも、それは「嫌悪しないようにしよう」と無意識に意識していただけのようです。
でも、この半年で見事に10人…!
ザワザワしっぱなしでした。
でも今日、心から心から思いました。
「いろんな人がいるんだ。」と。
いろんな事の積み重ねで、その時その時の心模様が自身にインプットされ、心のヒダに幾重にも重なっていきます。
それが、その人の性格となり習慣となり、「人となり」となって人生が作られていきます。
「弱さゆえに」言いたくても言えなかったり、したくても出来なかったり、自分を守るために他人を攻撃したり…
最初はそんな自分や環境に嫌悪していても、段々慣れてくると、それが当たり前になってしまいます。
そうやって、都合良く「ぬるま湯」が出来ていくんですよね。
被害妄想・嘘・誤魔化し・ゴマスリ・二枚舌・自己防衛・太鼓持ち・マウンティング・恫喝・恩義せ・狡さ…は、その人にとっては処世術であって、良い・悪いは別として、生きる術だったのです。
それを誰が否定出来るでしょう?
それを誰が間違ってると言えるでしょう?
わたしはわかります。
だって、自分もそういうところあるから。
《ありえない》人たちの言動と対峙した時に、
わたしも弱いけど、その考えとわたしは【違う】
わたしも弱いけど、その行動をわたしは【しない】
と、いう心の在り方でいいんだと今日、深く深く腑に落ちました。
一時期、「ジャッジしない」と言うのが流行りましたよね。
「良い、悪い」はないから「ジャッジはやめよう」って。
わたし、アレ、無理だったんです。
出来なかったの…
ジャッジしまくりでした。
「え?あの子のアレ、変やろ!」
とか
「は?それって間違ってるやろ!」
とか。
でも、主流は「ジャッジはやめよう」だったので、「ジャッジしないように」意識していたんですね。
わかっているつもりで、出来てるフリをしていたことになりますね…(汗)
でも、今日、そのカラクリがクリアになりました。
その考えとわたしは【違う】
その行動をわたしは【しない】
それでいいんだと思います。
ジャッジすること自体は、実はどうでもよくて、本当は、その奥。
ジャッジする事で、自分の心が乱れてイライラする事です。
いろんな事情でいろんな人がいます。
許せないことや許せない人、許してはいけない事…
色々あります。
個々の事情は理解出来なくても、それぞれに生きてきたストーリーがあると言うことさえ尊重すれば、「違い」を知った時、ジャッジしなくても済むようになるのかな…と思います。
それと、もうひとつの気づきが。
《ありえない》方々…の、この《ありえない》は、わたしの中の判断基準であるということ。
隣の人から見れば「それがなにか?」のレベルかもしれない…
世界は広いし、習慣も違えば表現の仕方も違う。
日本で生まれ育ったわたしのちっちゃな判断基準で、イライラするなんてのは、やはり視野が狭いと言わざるを得ない。
今回、縁切りの途中で、そんな《ありえない》方々から大切なことを学びました。
改めて、自分の視野の狭さを知り、世間の広さを学びました。
本当に、良い勉強になりました。
それでもやっぱり、わたしは出来るなら仇ではなく、恩は何倍にもして、恩で返したいなぁーと、思います。
長々とお付き合いくださり、ありがとうございますした。