「人生はうんとはじめのころに至福のほとんどを知るものなの。
人によって違うけれど、至福の鋳型はそのときに作られる。
そしてその後はほとんどずっとそれを取りもどすための戦いなの。」
―サウスポイント
今年いちばんうれしいメールをもらったり
お仕事で 新たな世界を見たり
大きい一週間でした
こう書くと いやー、毎週 大きい一週間だなぁ、と
つくづく思うけれど。ありがたいな。
大学時代の友人のご結婚式二次会に 出席させていただきました(*^^*)
あぁ~絶対お二人の登場シーンで泣いちゃうわ~と思ってたら
受付前でまさかの リラックスしているお二人。笑
良い意味でいつもどおりで、楽しんでいて、素敵な主役。
ビンゴでまさかの おっきなチュッパチャップスげっとん!(・v・)
わたしなんぞのコメントに 花嫁、まさかの涙。
えぇいあぁもらい泣き~(´;ω;`)
本当にね、大学4年間って わたしにとっては
学科の勉強、教員免許のための勉強、大学院入試のための勉強だけで
本当に休みなくてしんどかったけれど、
それ以外にも 片道3時間の通学の日々とか(笑)、
倒れて一人暮らしさせてもらうも 隣人イジメにあったり(笑)
毎日帰って来てバイトバイトの生活費を稼ぐ日々、
学科はとても濃いひとが多いし、こわい意味でも笑
なーんだかね、自分の居場所じゃないような感じ、
常に事件も多くて、つらいことが多かったんだよね。
きっとそういう時期だったのだろうと思うけれど。
だから、強い芯を持っているのに 情に厚くとても繊細で周り思いの、
たくさんのしんどいことも経験してきた友人が居てくれたからこそ
本当に乗り越えられたのだと思うし、
今もわたしの自慢の友人で居てくれて
そしてこうやって 素敵なひとと幸せになれて、
本当にうれしいです。うぅぅ
お式やパーティーは ご夫婦の人柄が出る、といいますが
本当にアットホームで あったかいパーティーでした(*^^*)
ゲストさんみなさま あったかいのが伝わってくるものねー、
主役のこれまでの生き方があらわれるのだと思う。
ふふふ、わたしの式や二次会は
そりゃもうバラエティ豊かなたーくさんの自慢の友人をお呼びしたい


他の友人にも会えて、パーティー前後にカフェでゆっくりお話できてしあわせー(*^^*)
みんな、それぞれの相手に それぞれのタイミングで出逢い、
幸せになって頑張っている。
人生は素敵だなぁ。
若い時は
周りにどう言われても、とりあえず思ったら突っ走るー!!って経験も
とても大事だと思うのだけれど、
大人になってくると
「みんなに好かれているひとを選ぶ」って
大事なことだなぁ、と 最近 思います。
自分が付き合っていて不安な相手と一緒にいると、
周りのひともそれを見て不安だし。笑
心から祝福してもらえる、
周りのひとに喜んでもらえる生き方をしたい。
なんかね、わたし、
将来の我が子も 自分の今の日記を読んでくれているような気がしているんだ、どこかで。笑
そして、将来我が子は大きくなって きっと実際にわたしの日記を読む日が来ると思うんだ。
だから、後ろめたい生き方はしたくないな。




そして 3年前に衝撃を受けて
日記にメモっておいた 内田樹先生のブログ記事を発見。
いやーん ナイスタイミング。
http://blog.tatsuru.com/2009/04/09_1010.php
以下、一部抜粋。
“どのような相手と結婚しても、「それなりに幸福になれる」という高い適応能力は、
生物的に言っても、社会的に言っても生き延びる上で必須の資質である。
それを涵養せねばならない。
「異性が10人いたらそのうちの3人とは『結婚できそう』と思える」のが成人の条件であり、
「10人いたら5人とはオッケー」というのが「成熟した大人」であり、
「10人いたら、7人はいけます」というのが「達人」である。
Someday my prince will come というようなお題目を唱えているうちは子どもである。
つねづね申し上げているように、子どもをほんとうに生き延びさせたいと望むなら、
親たちは次の三つの能力を優先的に涵養させなければならない。
何でも食える
どこでも寝られる
だれとでも友だちになれる
最後の「誰とでも友だちになれる」は
「誰とでも結婚できる」とほぼ同義と解釈していただいてよい。
こういうと「ばかばかしい」と笑う人がいる。
それは短見というものである。
よく考えて欲しい。
どこの世界に「何でも食える」人間がいるものか。
世界は「食えないもの」で満ち満ちているのである。
「何でも食える」人間というのは
「食えるもの」と「食えないもの」を直感で瞬時に判定できる人間のことである。
「どこでも寝られる」はずがない。
世界は「危険」で満ち満ちているのである。
「どこでも寝られる」人間とは、
「そこでは緊張を緩めても大丈夫な空間」と「緊張を要する空間」を直感的にみきわめられる人間のことである。
同じように、「誰とでも友だちになれる」はずがない。
邪悪な人間、愚鈍な人間、人の生きる意欲を殺ぐ人間たちに私たちは取り囲まれているからである。
「誰とでも友だちになれる」人間とは、
そのような「私が生き延びる可能性を減殺しかねない人間」を一瞥しただけで検知できて、回避できる人間のことである。
「誰とでも結婚できる」人間もそれと同じである。
誰とでも結婚できるはずがないではないか。
「自分が生き延び、その心身の潜在可能性を開花させるチャンスを積み増ししてくれそうな人間」とそうではない人間を直感的にみきわめる力がなくては、
「10人中3人」というようなリスキーなことは言えない。
そして、それはまったく同じ条件を相手からも求められているということを意味している。
「この人は私が生き延び、ポテンシャルを開花することを支援する人か妨害する人か?」
を向こうは向こうでスクリーニングしているのである。
どちらも「直感的に」、「可能性」について考量しているのである。
だから、今ここでその判断の正しさは証明しようがない。
それぞれの判断の「正しさ」はこれから構築してゆくのである。
自分がその相手を選んだことによって、潜在可能性を豊かに開花させ、
幸福な人生を送ったという事実によって「自分の判断の正しさ」を事後的に証明するのである。
配偶者を選ぶとき、それが「正しい選択である」ことを今ここで証明してみせろと言われて答えられる人はどこにもいない。
それが「正しい選択」であったことは自分が現に幸福になることによってこれから証明するのである。
だから、「誰とでも結婚できる」というのは、言葉は浮ついているが、
実際にはかなり複雑な人間的資質なのである。
それはこれまでの経験に裏づけられた「人を見る眼」を要求し、
同時に、どのような条件下でも「私は幸福になってみせる」というゆるがぬ決断を要求する。
いまの人々がなかなか結婚できないのは、
第一に自分の「人を見る眼」を自分自身が信用していないからであり、
第二に「いまだ知られざる潜在可能性」が自分に蔵されていることを実は信じていないからである。
相手が信じられないから結婚できないのではなく、
自分を信じていないから結婚できないのである。 ”
……すごいなぁ
ここまで文章で表現してしまえる奥深さというか。
「自分が生き延び、その心身の潜在可能性を開花させるチャンスを積み増ししてくれそうな人間」
まさにそうだね。お互い、そうでありたい。
世の中、逆に 一緒にいると命やたましいが磨り減ってしまうようなひと、
潰しにかかって来るようなひと、いくらでも居る。
そんな中で 光や水を注いでくれるひと、
いくらでも注ぎたいと想えるひと、
はぁーだいじ。
“どのような条件下でも「私は幸福になってみせる」”
この決意も好きだなぁ、
ね。結局はどう転んでも、
わたしはわたしで居ることで しあわせなのだろうなって自信もあるし笑、
その「わたしがわたしで居る」のは 愛する相手の存在があるからこそだし、
選んだひとを 心から幸福にしたいと想う。
依存でもなく、相手の持っている 見えるものに頼るでもなく。
わたしのほうがずっと、力をもらっているよ。