渡って、行ってしまった。
間に合わなかった。

12年前 高校に入学して すぐ
わたしの実家は 家を建て替え、
ログハウスのようなかわいい家に住むことになりました。
その数か月後、我が家に来てくれた 家族。
「うちに犬がいるー!!!」と喜び
「コジローって良くね?」と
名前をつけたのは
ずっと犬を飼いたがっていた 弟。
目の前にあるものは なんでも食べるのが、犬ちゃんの習性。
大量のガム、父の夕飯の酢豚、庭になっているトマト、
家族の目を盗んで食べまくり お腹をこわし 何度も騒がせた。
誰が来ても吠えまくり、
そしてなついて仲良くなる。
わたしたち家族の12年間、 一番大事な時間を見守ってくれた
かけがえのない家族
2012年11月3日
お別れをする日が来てしまったよ
わたしの引っ越し後 友人数名が泊まりに来てくれていた
8月のある日
母からメールが来て
コジが がんになった、と。
治療を続けても
もって あと数か月。
母は 診断を受けた帰り道
車を運転しながら 声をあげて泣いたそうだ
「もうちょっと一緒に歳を重ねたいよ、」と。
コジのことはもちろん
弟もわたしも実家を出ている日々で、
看病を続ける 父と母のことも心配で。
毎月 実家に帰るようにしたわたしは
弱っていくコジに胸を痛めながらも
まだまだどこかで 来月も会えるよね、と 思っていた、信じたかったところがあって。
10月に 母の友人の娘さんが いじめられて不登校になり
母の友人も、娘さんも、わたしと会って話したいとおっしゃって下さって。
大阪からはるばる うちの実家まで来て下さるとのことなので
11月最初の週末に 実家に帰ることになっていました。
しかし10月最後の週に 急遽子どもの心理検査が連続して入り、
3日に仕事をして 4日に帰る予定に。
2日の夜 久々の友人数名とごはんを食べている時
父からメールが来て
「もうこれ以上の治療は限界で、コジがもっと苦しむことになる。
安楽死の話がお医者さんから出た。
みんなで見送りたいから、来週にするかどうか……
家族で明日、話し合おう」と。
早ければその 明日決断をして見送ることになるかもしれない、と。
母と弟と
「でも、明日は大阪からお客さんが来ている時だよね」
「でも、一週間また伸ばすのが さらにコジにとって苦しいことになるのは、
わたしたちの勝手な都合になってしまうのかな」
「とにかく、明日の夜遅くなっても帰るよ」と
メールのやり取りをしていた、矢先。
母が 空港に友人親子を迎えに行っている間
わたしが とにかく早く帰ろう、と 仕事にとりかかっている時に
父からの連絡。
「いつものお気に入りのベッドで
亡くなりました、
たくさんの楽しい思い出をありがとう。さようなら。」
間に合わなかった。
これもわたしの勝手な想像でしかないと思うけど
わたしたち家族が安楽死を選んでいたら
それもずっと 自分たちを責め続けるんじゃないかと
コジは そこまで話し合わなくていいよ、と
わたしたち家族のことを想って 眠りについたんじゃないかと、思うくらい。
逆に 平日で父も母も仕事に行っている間
ひとりきりで コジが息絶えていたら
わたしたち家族は全員 ずっとやりきれなかったと思う。
いつもいつも 空気を読める、読んでしまう子。
こんな時まで、みんなが集まれる日まで。
本当に本当に頑張って生きていた。
毎日 コジの写真や動画を 送ってくれた母に 10月末
社会人になってから 弱音を吐かず頑張って来た弟が
「行きたいけど仕事が終わらないつらいきびしい
すまん」
と。
弟の口から 「つらい」だなんて言葉
初めて聞いた。
いちばん コジも 母も看病でしんどい時に
「今までの 君たちの愛情を、
コジは解っています。
それぞれの仕事でガンバ!
会えない君たちのほうが、
何倍も辛いな…」
と。
そして 一番つらい瞬間にひとりで立会い
一番つらいことを
家族に連絡してくれた、父。
わたしと弟に連絡する前に
父は母に 電話の向こうで
「コジが息をしていないんだよ、」と
わんわん泣いていたらしい。
その後、いつもの陽気な父としてふるまっていたけれど
安楽死の話をしている時に 泣いていて。
父や母がこんなにも 声をあげて泣くところを 初めて見た。
とてもかなしいことだけれども
家族の温かさ、重さを
すごく感じた数か月でした。
わたしは、自分の家族が 本当に大好きで。
ここに生まれてこられたことが、
人生で最初で最大の 本当にラッキーなこと。
ねえ、コジは どうだった?
ここで過ごせて しあわせだった?
何をしてあげられたかな。
コジがうちに来てくれた当時の恋人が
「犬を飼っている家は、幸せなんでしょう?」
と 笑顔で言ってくれたことを 覚えている。
犬を飼っている家に 幸せがやってくるのか
幸せな家に 犬がやってくるという意味なのか
わからなかったけれど。
受験生の時 大学に落ち続け
でもどうしても心理学科に入りたくて 夢を叶えたくて
泣いていた時、駆け寄って 頬を舐めてくれたこと
忘れられないな。
そう、11月3日は 恩師の誕生日で。
あの高校の先生がいなかったら
わたしはまず、教育や子どもに関わる仕事をしたいなんて
想わなかった。
高校での素晴らしい日々、
無事に大学に入れて 必死に頑張った4年間、
大学院の2年間、
臨床心理士試験の年、
社会人になってからの 今まで。
ほんとうに大切な日々、
見守っていてくれて ありがとう。
母の言うとおり、もうちょっと一緒に歳を重ねたかった、
見ていてほしかった けれど。
急いで実家に帰って
その姿を目にしたら
涙が止まらなかった。
本当に眠っているみたいで。
身体はここにあるのに
もう 動かないなんて。


11月4日
雲ひとつない 空。
火葬を終えてきました。
骨になっちゃった、と
わんわん泣いてしまった。
もう、何をしていても泣いて 使い物にならない。
それだけ大きい 家族という存在の大きさ、重さ。
もう ドアを開けたら飛び出して来てくれるあなたは
お布団にもぞもぞ入ってきて くっついてくれるあなたは
いない。
お空の上で 誰に会っているかな
元気に走り回っているかな
あなたが見ていてくれると思ったら
また 明日からも 恥ずかしい生き方は出来ないよ。
12年間で たくさんの たくさんの方がわたしの実家には遊びに来てくれていて。
どれだけのひとが コジを抱っこしてくれて 愛してくれたか わからない。
今までコジを愛してくれたみなさま、
本当にありがとう。
いちばん好きな写真。
いつまでも愛しているよ。
