まだ真っ暗な早朝に自宅を出て
神戸空港より鹿児島空港へ向かいました。
知覧特攻平和記念館へ
かねてから、一度訪れたいと思っていました。
「今」行ける!と
日帰りでの訪問です。
娘に
「必ず読んでいった方がいいよ」と勧められた
「知覧からの手紙」を読んでから訪問しました。
娘は、高校3年の夏休みの課題図書で読んでいたそうです。
知覧からの手紙
穴沢利夫少尉(享年23歳)と伊達智恵子さん
あの戦時下で出会い、自由に会えない中、手紙やり取りを通して愛を深めていきます。
利夫さんとの結婚が正式に決まったのは、空に飛び立つおよそ3週間前です。お二人の絆を深めた手紙の数々を中心に本書は構成されています。
お二人の出会った場所が、私がかつて学んだ学舎であったことで、ご縁を感じ、引き込まれてしまいました。初めて出会った時は、19歳と17歳のおふたり。
本書の後半では、
智恵子さんが、戦時下の東京からの利夫さんに一人で汽車を乗り継いで、会いに行く記録が刻々と記されています。
当時は
家族にさえ、特攻隊であることを明かせないのです。
飛行場がどこかわからないまま、智恵子さんは3月29日に、宮崎県都城市へたどり着きます。
「会いたい、、」 の一心で。
昭和20年、3月8日から4月12日の出来事を
この本を通して、知ることになります。
お二人が会えることを祈りながら、、
穴沢少尉が特攻志願し、飛び立つ前に書いた日記に心臓がしめつけられます。
「1945年3月27日の夜に壮行会」と記載があります。この日に穴沢少尉は、都城市から特攻出撃地である知覧に移動されたそうです。
(冒頭の写真。日記を読みながら思わず走り書きしてしまいました)
毎日覚悟を決め、朝を迎えるのですが、天候不順や機材トラブルで飛ぶことのできない、無念さと気丈さを書く日記に、不安な気持ちも一度だけ吐露されているのです。
4月12日に飛び立つまでに、5回出撃したと日記に書かれています。毎回、機材トラブルや天候不良に見舞われるのです。
変えられない未来を前に、、
23歳の若者です。
同じ年齢の息子を持つ母親として、言葉になりません。
最年少の少年飛行兵の方は17歳でした。
大学生の娘より年下です。
そして、この出来事は、事実なのです。
本を手に取って読んでみてください。
いざ知覧へ
私は、もう機内にいる時から、若き彼らの気持ちに思いを馳せてました。
この写真は、雲の上ですが
ここまで上昇するまでの間、眼下に民家や山々や海を見ながら、、
✈️神戸空港ー鹿児島空港
約70分(所要時間)
🚎鹿児島空港ー(高速バス)ー鹿児島中央駅
約40分
🚌鹿児島中央駅ー(路線バス)ー特攻観音下車
約75分
音声ガイドをレンタルして、
没頭した3時間40分。
もちろん飲まず食わずで。
遺品展示の数々。
もちろん手を触れることができません。
ご遺族の想いがたくさんつまった貴重な遺品。
(館内は写真撮影はできません)
私、言葉が出ません。
そして時間が足りなかったのです。
私たちは、バスの時間を守らないと帰れないので
15:56 発 特攻観音のバス停より乗車
行きのルートを戻って行きました。
おしゃれなカフェやお食事所もあり、そこで食べようと思っていたけど、結局、食べれませんでした。
いやー、お腹すいているよね。
おみやげやさんで、さっと買って
バス停で、頂きました。
簡単に食べるものが手に入り、死ぬほど、空腹を感じることなく、美味しい食べ物を食べれる現代。
バス停の寒さなんてたいしたことないです。
帰りのバスでは、
鹿児島湾を皆さん写真に撮っていました。
「離陸。煙吐く桜島を右に鹿児島湾を横断するや、微雨ありて雲低し」
(p.187 穴沢利夫少尉の日記より)
都会な鹿児島中央駅
鹿児島中央駅で下車した時17:30くらい
ここは、本当に鹿児島?
大きなビルと駅前にタワマンがあり、現代社会に復帰しました。既視感のあるユニクロ、GUなどのロゴ
ビル最上階の大きな歯科クリニックが目につきました。
駅ビルにあるラーメン屋さんへ
美味しかったです。
豚骨ほどコッテリしてなくて、さっぱりとしたスープ。
とんこつと長崎ちゃんぽんの間くらい。
よく混ぜて食べました!
このラーメン好きかも。
仕事の都合で平日の日帰りプラン
思い立って、夫と行ってきました。
(夫がその日がお休みだったのが、一番の理由です)
息子や娘も連れて行きたかったです。
戦後80年となる今年
もう当時のことを知る方たちは、90代後半とのことです。







