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カラスの子の巣立ち

隣の木で生まれたカラスの子、二羽が、一昨日巣だっていった。

丁度、ブラジル戦で、ロナウドの美しいシュートがあった日だ。


声変わりがしたなと思っていたら、巣立ち前の5日間くらい、なかなか飛べず、我が家の庭を飛び跳ねていた。

少し痩せ、頼りげなくはあったが、既に立派な大きさだった。

そんな時、親鳥が、子どもを守り、我が家のガラス越しにこちらをにらみ、少し近寄ると、羽を広げて威嚇していた。

目の前、12mまで近寄ってくると、相当に威圧感がある。

そして、外出時、突かれるまではいかなかったが、私を見知った親ガラスが何度か、後ろから突如急降下し、頭の上すれすれに羽音を聞いた。


巣立った後、カラスの一家はどこか新しい宿を見つけたようで、戻ってくる気配もなく、すっかり静かになった。

カラスに追いかけられていた猫も、やっと外に出られるようになった。

カラスと共存するのは恐らく無理だと感じていた後、平和な日々が戻ってきた。


その巣立ちだった一昨日の昼、数羽のカラスが近所を飛び回り、大声で鳴いていた。

駅まで、また上から攻撃されるかなと、鞄を首の上に掲げながら、少し不安な気持ちで歩いた。

感動したのは、学芸大学の駅から見た光景である。

小さな二羽のカラスが飛び、ビルの上や、木の上に立ち寄るのを見守りながら、きっと親鳥とその友人だろう、数羽のカラスが、高らかな鳴き声を上げながら、旋回していた。

雛から孵り、一月もの間見守り、そして巣立っていくときも離れずに励ましていた。

こちらはやや迷惑したが、カラスは立派に子どもを育てたのだ。

目黒区の街づくり条例

住民参加の元で街づくりを進める仕組みであるはずの街づくり条例が、区民の協議等を踏まえずに作られる。


原案を作成したのは、都市計画審議会であり、彼らは、旧態然とした都市計画行政を堅く守ろうとしていた。


都市計画を決めていく際の住民参加の規定=住民の権利は、全く想定されておらず、街づくりを提案する住民の責務のみが取り上げられていた。


そして、漢字の街にこだわり続け、住民が公共の場である街で展開するまちづくりではないことのみが強調されていた。


地方行政は、住民の生活のシビルミニマムを目指すまちづくり行政のはずであり、街づくり条例は、行政・住民・事業者が協働の努力によって、共有する公共の場を、如何に作り出し、維持・管理していくかに焦点が当たってしかるべきだった。


土地利用を含めて、街は公共の場であることの認識があれば、偽装建築や周囲に迷惑をかけるような建築は、地域から排除できるはずであり、周囲の建築に対する住民の監視的な参加まで考慮して、街づくり条例はその理念の実現を目指すべきだった。


公共の場で生活する住民が使えるようにすることが、街づくり条例で求められていることを理解していない。


地方自治が重要視される今日という時代に作るのであれば、最近つくられた練馬区の条例とはいわないまでも、主役である住民の顔が見える条例が求められるのであり、行政のコントロール下に収まる、限定的な街づくりを対象にしている姿勢は、付き合う勇気を失わせる。

人口減少時代の都市の一つのイメージ

6月5日の日経新聞の朝刊、経済教室で、香西泰(日本経済研究センター特別研究顧問)が、「「都市」礎に文明再生を」と題して、人口減少時代の21世紀、多様性の向上を柱として、「死と生」の20世紀超えよという趣旨の論文が掲載されていた。


ポイントとして、「都市の多様性を創造するのは、信じられないほど多数の種々様々な人々や民間機関である=ジェイン・ジェイコブズ」を掲げている。


『ジェイコブズは高速道路が地域社会を分断し、大公園は非行者のたまり場になるとして、大規模な都市改造に反対し、わい雑な下町にこそ都市の生命があると訴えた。
「アメリカ大都市の死と生」では、街路歩行の安全性が問われる。ここでのキーワードは「多様性」である。それが失われれば都市は死に、戻れば生き返るというに尽きる。「棄てられた畑に迷子の種子が侵入し、雑草、コケ、虫、アリが参加し、鳥が飛来する。腐葉土の下で無数のバクテリアが繁殖する。」
経済学者ハイエクは、20世紀の危機は、人類を束縛する「隷従への道」に迷い込んだためであって、社会を意のままに設計し組織できるとする知識人の思い上がり(設計主義)に由来すると主張した。
これに呼応するかのように、ジェイコブズは都市は設計どおりに営まれるべきだとした設計家や計画当局の高踏的前提を否定し、人々の多様な欲求やその充足こそが都市の本質であり、活力の源泉だと主張する。この立場から、ゾーニングを否定し、人口の密集、多様な機能、多様な建築を奨励した。
都市における公私の関係について彼女は言う。「都市の多様性を創造するのは、公的活動の形式的枠組みの外で大いに異なる発想や目的に沿って計画し努力している民間機関である。都市計画の責務は、かくも多様な民間の計画、発想、機会が盛り上がるに適した都市を発展させることだ」。ハイエクの構想する自由社会と響きあう。
普通の人々の、日々の生活の積み重ねが人間の文明を形づくる過程を、ジェイコブズほど精緻に描いた人はいない。文明の死から再生への希望、隷従からの道に通じる。
ジェイコブズが「公共的(パブリック)」というとき、官僚組織よりも個人の微細な自発的協力を意味することが多い。
人口減少時代に突入して、都市については「コンパクトでにぎわいのある街づくり」を目指して「まちづくり三法」の改正法が先週成立した。これまでの商店街中心の街づくりから、公共公益、業務、商業など多様な都市機能の集積と、「街なか居住再生ファンド」による支援を通じて、街の活力の源泉である居住人口を増やすことを、総合的且つ全体的に推進する点が、題目になっている。
また改正法では、国の支援の「選択と集中」の仕組みが整備されるとともに、多様な民間主体が参加する中心市街地活性化協議会の制度化が進められた。
法改正では、大型店の郊外出店の規制が強化されたが、地域の多様な発展の可能性は残しておきたいところだ。
これからの街づくりにはジェイコブズの思想を出来るだけ取り入れていくべきである。』


日本は、どのような地方の時代を選ぶのだろう。香西の議論は、希望に満ちているが、ジェイコブズは恐らくボトムアップ型の公共、民主主義のありようを提示したのであり、彼女の言を引用するのであれば、まちづくり三法の改正において、政策評価の元で今までの取り組みを否定して、同じレール上でトップダウン的に新たな仕組みを導入する姿勢そのものが疑問視される。
それが如何に、協議会的な装いをもとうとも、民間の多様な発想を、市町村が計画できることはない。指定管理者制度は、残念ながら、公的な施設管理の民間への自由度のない委託だった。住民組合法人がその穴をこじ開けることが可能だろうか。
ハーバーマスではないが、NPOが立ち上がった当時の議論に戻り、まちづくりの主役というより、公共の担い手の変化という切り口から、これら一連の動きをとらえていくことが、恐らく、21世紀の解答に近づくはずだ。

カラスはストーカー

三本足のカラス、八咫烏(ヤタガラス)は、大阪の上陸が果たせなかった神倭伊波礼比古命=神武天皇に対して、天から遣わされた熊野の道案内として登場する。大きな鳥で、熊野本宮大社の八咫烏は白く、頭が八つとも言われているそうだ。

白いカラスといえば天然記念物で、九州で、電柱に巣食っているのを見た記憶がある。

八咫烏は、今は、日本サッカーの旗印になっており、黒い色をしている。今日、八咫烏の集団は、ワールドカップに向けてドイツに飛んでいったが、我が家のそばの電柱や屋根の上で周囲を見張っている二本足のカラスは、今子育て中である。

今、カラスが襲ってくるという経験をしているが、カラスはなかなか迫力がある。

隣の敷地の木で生まれたカラスの子の泣き声が時々するが、先日、その木に近い窓を開けてタバコを吸っていたら、目の前1mくらいのところを飛んできて、さっと方向を転換した。その後、近所を歩いていたら、頭の上をさっと通っていったことがあり、偶然かなと思っていたら、今日、公園からの帰り道、2度、後ろから突如羽の音がして、頭すれすれのところを、カラスが通っていった。後ろを振り返ると電線の上にいる。そして、ご丁寧に我が家に入るまで、付いてきて、じっとこちらを見ていた。

こちらは何もしていないし、カラスの子が巣立つまでの辛抱と思っているのだが、何故か、カラスは、隣人である私を敵と見なしたようだ。これからは、帽子をかぶって外出をしなければなと思う。

カラスの子

一ヶ月ほど前に報告したが、我が家の隣の空き地にある樹にカラスが巣を作った。

数日前の朝、その巣から小さな鳴き声が聞こえた。遊びに来る小鳥たちのさえずりとは違う。未だ姿は見ていないが、どうも孵ったようだ。


一昨日、洗濯を干しに3階のベランダに行ったら、親鳥が、頭の上すれすれに飛んでいったと妻が話していた。

そのベランダから巣までの離れは、5mもない。カラスにとっては、我々は直近の敵である。

その樹に近い、猫の額の庭に下りると、時々、カラスは遠くの屋根の上で見張っているのが分かる。


昨日、猫の予防注射をしにいったとき、カラスの巣立ちの事を聞いた。

野生の動物に詳しい人に電話をかけてくれ、巣立ちは一ヶ月ほどだという答えをもらった。

その時、看護婦さんが、動物園で、傷ついたカラスの子を保護したら、親鳥が飼育係を襲ってきたという話をしてくれた。

その動物のお医者さんは、カラスは言葉を覚えるから、汚い言葉は使わないこと、出来ればモーツァルトを聴かせたらとご機嫌だった。


こちらも、手出しはしないから、巣立ちまで、大人しくしてくれればいいなと思う。

カラスの子は、本人にとっては遊びなのだろうが、育つ過程で、いろいろと悪さをするそうだ。干し物だけでなく、アンテナも不安だ。

昨日、翼竜鳥の番組をテレビで見た。何故、恐竜が、空に飛んだのだろう。

恐竜が滅んだ後、空を飛ぶのは、トリとコウモリに分かれたそうだ。

頭のいいカラスは、人間と同じように、最後の頃に枝分かれしたのかな。

対概念と中間領域

以前、防災計画を説明しようとしたときに用いた対概念と、中間領域をふと思い出した。その後、防災に対して、減災という言葉が編み出された。

・対象と原則

環境計画、公害                防災計画、被災

汚染(原因)者負担              被災(被害)者負担

・想定時間、変化

予測、未然防止    想定、事前対策    実態、被害対応

日常、平常、連続      確率      緊急、危機、断絶

復興、長期       復旧、中期     緊急措置、短期

定住、本格建築      仮設住宅     避難所

・計画の概念

相対、柔軟性      代替性、比較    絶対、特殊、硬直性

多様、全体、輻輳化   複合、平準化    一律、部分、単一化

誘導、緩和       管理、制御     規制、制限

開放系、網構造      双方向      閉鎖系、一方向

・計画の内容、方法、要素等

構想、ソフト        計画      事業、ハード

保全、現状型      修復、推移型    開発、飛躍型

上部構造、社会    コミュニティ、都市  土台、インフラ

私、民、自助       共、協働     公、官、指導、補助

・計画の広がり方

広域、一般市街地     特定地域     地区、拠点

ネットワーク      路線、システム   区間、ツリー

情報、ライフライン    道路、鉄道    航空、港湾

細街路、アクセス     補助幹線    幹線道路、トラフィック

上記は、防災を考えてゆく際に、対として思い浮かぶいくつかの概念等であるが、右側に列挙した概念等が防災に対応するというわけでは必ずしもない。むしろ、官主導の対応や、都市の計画において、防災や環境は条件であり、目的ではないにも拘らず、防災や環境を考慮するときに陥りがちな正義の計画や単純系の事業主義、即ち常識の都市計画が有している要素を描いたといったほうがよい。

都市の計画を考える際、この他に対となる概念として、新vs旧、量vs質、大vs小、長vs短、増vs減、内vs外、裏vs表、前vs後といった基本的な分類の他、

・時間に関して、原因vs過程vs結果、過去vs現在vs将来、変化vs推移vs固定、開発vs維持vs破壊、産出vs廃棄

・方法に関して、原則vs修正vs応用、総合vs分解vs要素、立体vs平面vs点、複雑vs単純vs単一、全体vs総合、アセスメントvsマネージメントvsコミュニケーション、予知vs推定vs実測

・関係に関して、生産vs流通vs消費、調和vs不調和vs対立、共生vs共存vs排除、公正vs平等vs差別、正義vs不正、正当vs不当、公vsvs私、固有vs一般、創造vs模倣、危険vs安全

・変化に関して、改造vs修復vs保護、拡大vs停止vs縮小、成長vs成熟vs衰退、人工vs人工的自然vs自然

・社会的区分では、国家vs集団vs個人、集権vs分権vs主権、トップダウンvsボトムアップ、過密vs過疎、国vs地方vs地元、都市vs農村vs山間、都心vs郊外

・人的関係では、自立vs補助vs互助、独立vs相互扶助vs依存、放任vs自由vs束縛、孤立vs交流vs連携、説得vs納得vs合意、共有vs私有vs独占

等があげられる。要は、多くの事象に相反する面があるということである。

熱狂の日 三日目

昨日は、我が夫婦の、モーツァルト熱狂の三日間の終わりだった。


レクイエムの少し前に出かけ、半券で入場できる、聴衆250人ほどの小さなホールでピアノを聴く。これが、思いもかけない、楽しいお土産だった。

ピアニストは、仏のフランク・ブラレィで、ジーンズ姿で登場し、モーツアルトのロンドとハイドンの小曲を、軽やかに弾いてくれた。

演奏の後、聴衆の質問に答える形で彼のトークがあった。

「なぜ貴方は、他の人と違った演奏をするのか」といった質問に対する答えが印象的だった。

「生まれたときから母親のピアノがあった。言葉よりも音が先にあり、母親との会話を通して、音符がアルファベットの代わりだった。ある人にとっては楽譜を見ると音が浮かんでくるというが、私には楽譜は脚本であり、楽譜が語りかけるものを表現する。上手く弾こうと思ったことはない。作曲家が楽譜で表現したものを、私が実際の音で表現する。-例えば、To be or not to beを三つの表現で表し、次いでピアノに向かってハイドンの一節を、三つの違ったリズムと強さの弾き方で演奏してみせる。-同じ素材でも、違った表現で、伝わるものは違ってくる。楽譜を見て、そこで浮かんでくる音を表現することが、自分にとっての音楽だ。」

ざっとこんな内容だった。

作曲家と演奏家のコラボレーションとでも言うのだろう。


ふと、演奏者の呟きがレコーディングされているグレン・グールドを思い出す。

そして、高校のとき、ベートーベン5番の十数枚のレコード数節を聞かせ、指揮者を当てる企画があったことを思い出した。

和音やリズムを聞くと作曲家が分かるし、音の表現の仕方の特徴から演奏家が分かる。

ジャズはまさにそうだった。アドリブが演奏家その人の表現だ。

彼ら演奏家は、他の人の演奏を容易く真似することが出来るが、彼らの演奏はいつも彼ら自身の音を奏でている。そんな当然のことを、改めてピアニストの言葉で語られて、思わず頷いてしまった。

締め括りに選んだレクイエムは、いつも聞いている演奏に比べてシンプルだった。

弦楽器の演奏の中から溢れ出てくる人の声は、美しい。コーラスは息を飲ませる。


5千人入った1階の後ろのほうから会場を眺めると、皆が壇上のソリストたちを見守る様は、まるで祈っているかのようだった。

途中から、音の流れが変化する。軽やかさが混じっていた前半から、荘重さを追い求める後半に移ったとき、ああモーツァルトが終わったと感じた。

演奏が終わったとき、思わずほっとため息をした。

来年の熱狂の日は、どのようなのだろう。

昼も良いが、モーツァルトが聞こえてくる夜も、ケヤキの若葉がビルの谷間で爽やかな5月の始まりを告げていた。

モーツァルト三昧の日

有楽町の東京国際フォーラムで開催している「熱狂の日」音楽祭2006モーツァルトと仲間たちを聞きに行く。去年のベートーベンを聞き逃したが、今年は念願がかなった。この連休中の企画は当たりで、チケット販売から三日目には、5千人入る大ホールの席しか空いていなかった。


昨日3日はクラリネット協奏曲、アイネ・クライネ・ナハトムジーク、ピアノ協奏曲21番、今日はフルートとハープのための協奏曲である。すべて入門編の曲で、今まで何度も聞いた曲を存分に楽しんだ。明日もう一度足を運ぶことにしている。仕上げは、レクイエムにした。


昨日は、クラリネットの音に酔い、弦楽器が心を染み入り、ピアノの音色に体を泳がせた。手が自然に動き、小さなハミングが浮かんでくる。そして帰りに、しばしの余韻を楽しむため、オープンカフェづくりの店でワインを飲む。今日は、朝のうちに皇居三の丸に出かけて、春と初夏が入り交ざった緑とお堀を楽しんだ後、舞台の中で浮かび上がってくるフルートとハープのやり取りに心を躍らせた。


40年も前、クラリネット協奏曲のレコードを手にし、B面にあったフルートとハープのための協奏曲を始めて聞いたとき、なんて美しい音があるのかと感じたことがある。


今日は、FMで一日モーツァルト三昧の企画がなされており、早めに帰ってきて、音の中に浸る。

モーツァルトを聞く前に寄った皇居三の丸尚蔵館で、伊藤若冲の30図あるうちの動植綵絵6図を見る。丸山応挙の鶴もそれなりに良かったが、若冲の絵は異次元だった。その微細な表現、白い色の中に書き込まれたいくつもの筋、動きが伝わってくる形、なまめかしい色、ため息が出た。


二の丸の広々とした芝生は気持ちがいい。この季節、桜が終わり、菖蒲には早いが、ツツジが色を添えており、若葉が綺麗だった。石積みが映えるお堀の水も綺麗になっている。

これで幕引き?

426日、ほぼ半年世間を騒がせた耐震偽装問題に関連して、名義貸しの建築司法違反で建築士の姉葉、秋葉、粉飾決算という建設業法違反で木村建設の木村、篠塚、森下、橋本、資本金の虚偽の登記などでイーホームズの藤田、岸本の8人が逮捕された。建築士剥奪、企業倒産等により、彼らはいずれも、当時の業を辞めている。

半年間の騒動も、これであっさりと幕引きなのかもしれないという感じがする。

いずれも容疑は、耐震偽装とは別件である。建築の偽装、言い換えれば違反建築の設計や建設に対する罰則が小さすぎるという法的な問題だけが浮かび上がる。

違反建築への関わりが問われたはずなのに、別件逮捕により、関係者に対する社会的制裁の面に焦点が当たり、その法律違反行為に対する認識が背後に隠れる。


これまでマスコミを賑わせた役者としては、姉葉の設計による木村建設絡みで、事件発覚の発端となったマンション系のヒューザーの小嶋、ホテル系の総合経営研究所の内河、四ヶ所、国からの天下り人事で構成されているERIの鈴木が残る。

ヒューザーと総研の詐欺容疑の立件はこれからになるが、いまだ固まっていないというのは、立件は難しいのだろう。

今のところ、建築審査でミスが問われるはずの民間機関ERIや地方公共団体の建築主事、仲介役と名指しされた政治家は見事に隠れおおせ、国交省の中枢部も制度の責任から逃げおおせたようだ。

この激震が起こった半年、途中で、熊本と札幌での耐震計算偽装、ハートビル法違反の東横インなどが派生的に現れた。

無責任な天下り組織である民間建築主事の設置を促した規制緩和の是非、経済的な責任を持つことのない性能評価機関の放置、新耐震前の建築の安全性等は、そのまま放置されている。


また現行の法制度にも問題がある。

民間建築主事にとどまらず、都市計画上の用途地域等の緩和により低層住宅地に建設される中高層ビル、巧妙な、建築基準法の解釈によって計画される建築、例えば斜面地や地下の地盤を利用して低層住居地域で建築される地上5階建ての建物、総合設計の名の下で進められる容積率等の緩和、天空率の規定による高層ペンシルビルの出現など、法遵守そのものに問題の発生因があることも指摘され始めている。

しかし、耐震偽装という激震が走ったにも拘らず、建築基準法の抜本的な見直しはおろか、法の運用に対するメスは入らず、建築士法、保険制度等の枝葉の見直しで収まる気配が濃厚である。

三春の桜

昨日25日三春に行き、滝桜を見てきた。樹齢は、1000歳とも、1200歳ともいう。平安の頃に植えられた枝垂桜である。それは、縄文の時代から続く、この地の文化の高さをどこかで語っている。東北の平安仏に匹敵する。見学者が小さく見える、堂々とした枝振りの満開の滝桜を見ながらの昼食は、至福だった。


三春という素敵な名前は、梅と桃と桜が一緒に咲くところから来ていると聞いたとき、その素晴らしい響きに胸が躍り、三つ春が重なったときに、一度は行きたいと思っていた。今回の市町村合併騒ぎでも、財源が厳しい三春は周辺から見放されたそうで、これからも、三春という名は残る。20年近く前、三春の駒と天狗の面を得て、一人悦にいった記憶があり、草鞋のついた大きな天狗の面は何人かに贈った。我が家の階段の踊り場にも、自己主張をしている。


今は端午の節句の前、鯉幟だけでなく、鐘馗様や武者絵の幟旗がこの季節に似合っていた。鯉幟は何匹か翻っているのが原則で、小さな部落(近所の繋がり)の全員が、男の子が生まれたお宅に贈るのだそうな。滝桜のそばの家にはためく7本の幟旗に紋がついていた。幟旗を送った親戚の家紋が記されるとのことで、地方の縁の怖さの一端を垣間見る思いだった。


郡山の山側から三春の一体は、杉林や竹林を除いては、未だ葉をつけていない雑木林が広がり、どこを通っても桜を堪能できた。その間に、水仙、菜の花、連翹、梅、花桃などが咲いていたが、艶やかな桜は、他の花を差し置いて目に飛び込んでくる。大島桜、山桜、染井吉野も綺麗だったが、200歳を超すいくつもある枝垂桜は、斜面地を覆う姿で辺りを圧し、見事な花ぶりだった。


三春で、お城山の麓にある、三本の200歳以上の枝垂桜を有しているお宅に寄った。満開の桜を前に、そのお宅の奥さんからお茶を勧められた。彼女が曰く、「ピンクの色が残る八分咲きのときが最も美しい」、「晴れの日は桜の花の色が輝いており、裏山の杉林の中に映える」、「枝垂桜の花びらは小さく、風がないときに、漂いながら散るさまは、何とも言えない時間が流れる」、と。