こんにちは〜ニコニコ

今日は父のことを。。
本日78歳の誕生日を迎えましたおねがい

60歳で公務員を退職後、民間企業で5年勤めて、65歳で完全に引退。。
65歳まで働き続けたから、あと10年はやりたいことをやって75歳くらいまでは元気でいたいというのが当時の口癖でした。

60代後半は、地域の活動に勢力的に参加して、その仲間と旅行に行ったり、飲みに行ったり、社会に貢献しながら、自由に生きていたように思います照れ

そして70代になった頃、母がパーキンソン病を発病して、そこから我が家は介護という現実に向き合っていかなければならなくなりましたが、比較的、母の病気の進行が遅かったので、私と姉は最初の頃は何もサポートせず通院の付き添いはすべて父がしていました。

その生活が一変したのが今から3年前の父が75歳の誕生日を迎えた2017年5月。

『75歳までは元気でいたい』

その言葉通りになってしまいましたショボーン

その年の4月上旬から、肩甲骨のあたりが痛いと言い出し、そこから徐々に腰の方まで痛みが広がって。。

最初にかかった整形外科では加齢に伴うものだから、運動をするようにと言われて、しばらくそこに併設するリハビリに通って。
後から考えたら、やってはいけないことをやっていたのだから痛みは増すのは当たり前で。。

ゴールデンウィークにはついに立っていられないほどの痛みに襲われ救急受診。
ゴールデンウィーク明けに総合病院でMRIを撮って、整形外科で圧迫骨折の診断。
ただ気になるところがあるから血液検査させてほしいと言われたとショボーン

それを聞いて、私はある病名が浮かびました。。

何度かブログに書いたことがあるけど、私は以前、病院勤務の経験があって、その時に研修を受けて、癌のことを結構勉強したので、腰痛から発見されることが多く、血液検査で精査すると聞いて『多発性骨髄腫かもしれないな。。』となんとなく思いました。

血液検査の結果を聞きに整形外科を受診した日、一緒に血液内科の予約が取られていて。。

『あぁ、やっぱりかぁ。。』と。。

その頃にはベットで起き上がるのも痛みを堪えながら10分くらいかかるようになっていました。
10分かけて起き上がって何とかトイレにだけは這いながらも頑張って行ってたけどそれ以外はベット生活。
通院ももちろん介護タクシー。。

このまま寝たきりになってしまったらどうしようか。。そんなことを悶々と考える日々ショボーン

診断はステージ2〜3(多発性骨髄腫は3までのステージ)で、平均的な余命は3年と言われました。

その日から痛みのコントロールのため緩和ケア内科も介入。麻薬と経口抗がん剤で治療が始まりました。

麻薬のコントロールが上手くいって、3ヶ月くらい経ったら杖をついて歩けるようになっておねがい
半年後には1人で車を運転して通院できるまで快復しましたおねがい
診断がついた頃、もう一度、車を運転できるようになりたいと言っていた希望がかないました。
介護車椅子に乗っていた父からは想像できないくらいの快復でしたニコニコ

それから1年と少しは自分の通院も母の通院の付き添いも父がしていましたが昨年2月に脳梗塞で救急搬送ショボーン

脳梗塞は骨髄腫の治療の副作用なのか、長年の喫煙の影響か(50年間ヘビースモーカーでしたのでえーはてなマーク
救急搬送の数日前に母から父の右目がほとんど見えないらしいと聞いたけど、私と姉は白内障が進んじゃったんじゃない?くらいで軽く流してしまいました。。
が、それが脳梗塞の兆候だったようですショボーン

幸い麻痺などの後遺症は残らなかったものの、物忘れの認知低下がその時から始まり今に至ります。
脳梗塞をきっかけに免許も返納。
昨年のちょうど今頃、私が代理で返納に行きましたが、あーもう父が車を運転することはないんだなぁって、すごく切なくて、パンチで免許証に穴をあけるのは直視できませんでしたショボーン

私の病気がもう少し早く見つかって、父の脳梗塞と重なっていたらきっと大変だったなぁ、だから神様は少し発見をずらしたのかもしれない、そんなふうに思ったこともありました。

今月で多発性骨髄腫診断時に言われた平均余命の3年を迎えました
現在も経口抗がん剤で治療継続中です。
脳梗塞も再発しやすいと言われ続けていますが何とか現状維持で頑張っていますおねがい

今日と同じ明日があることは当たり前ではありません。それはみんな平等だけど、私たち家族はそのことを強く感じずにはいられない毎日を綱渡りで生きています。
だから昨日と同じ今日を過ごせたことを1日の終わりに日々感謝していますおねがい

『80歳までは頑張りたい』

今はこれが父の口癖です爆笑