今日は正覚寺で文化財調査があるので見学してみませんか?
と声をかけていただいて、
市内正覚寺さんに初めて行かせていただきました。
岸和田駅から海の方へ下っていったところ。

こちらが、旧26号線沿いの入り口。
そして
こちらが正門のようです。

正覚寺は、
寺伝によれば、もとは紀州根来寺(和歌山県岩出町にある新義真言宗総本山根来寺)の末寺で「摩頂山圓通寺智光院」という寺院であった。
しかし、天正十三年(1585)、豊臣秀吉が大軍をもって和泉から根来に入り、根来・雑賀の一揆を鎮圧する。
その兵火を受け、和泉一帯の根来勢力はほぼ一掃される。
別の寺伝には次のような記述がある。
「茲ニ天正十三年根来兵乱蜂起シ、當城戦乱騒擾之時、堂宇儘ク被為破壊、此時古来之山院寺號隠滅セシ」
つまり、当寺もこの戦乱の兵火に合い、堂宇が悉く破壊されたようである。
よって、開創年代を詳らかにすることはできない。
そして、天正兵乱以後、根来寺の勢力は急激に衰える。
和泉地方一帯の人々も、明け暮れる戦乱に疲れ、真の救いを求めて浄土宗のお念仏に帰依の心を深めていく。
当寺も新義真言宗から浄土宗へと人々の求めに呼応していく。
(岸和田市正覚寺ホームページより)
和歌山の根来の系統の真言宗として開いたお寺と言うことですが、
今日私たちがなによりたくさん見せていただいたのは、
江戸時代に念仏講を開いてお念仏を多くの人々に広めて回られた
徳本上人にまつわる、さまざまなものです。
徳本上人は、独特な書体で「南無阿弥陀仏」と書かれ、
いろんな人にお念仏をとかれてまわったそうです。
お寺には徳本上人ゆかりの品々がたくさんあり、
見せていただきました。
徳本上人はとても大柄な方で、
お寺に残る徳本上人の袈裟はとても大きくて、
180センチの方が羽織ってもまだ大きい、というようなものだそうです。
大きな団扇もあって、普通サイズよりもとっても大きな団扇でした。
これはご自分であおがれるものではなくて、
どなたかが徳本上人のためにあおいで差し上げたものなのでしょうね。。。
とご住職さまがおっしゃっておられました。
同じように扇子も普通よりも大きなサイズ。
大柄で、おおらかな、
そして人々にきっととても好かれた方だったのではないのかなと、
思いました。
徳本上人の像がふたつあり、
一つはシュッとした男前の像。
ちょっと小さな像ではありますが、
端正なお顔がとても素敵でした。
背中には金字で「南無阿弥陀仏」と書かれています。
お座りになったお姿ですが、
なんと底面に蓋がついていて、
そこを開けてみると、な、な、なんと!
徳本上人の爪と歯がきれいにしまわれていたのです。
しかも、歯には「南無阿弥陀仏」と書かれていました。
見事!としか言いようのないものでしたが、
人々が徳本上人のことを本当に大切に大切にされておられたことを、
想像しました。
徳本上人は和歌山日高のお生まれでした。
ある時、和歌山から岸和田にやってきたとき、
あまりに沢山の人がお迎えに出られたので、
徳本上人を載せた籠が前に進むことができず、
徳本上人が籠を降りられ、
屋根の上に上がり、そこでお念仏を唱えられた。
という話も残っているそうです。

この案内板の徳本上人は、
この正覚寺に残るもう一体の徳本上人さまです。
喉元から「南無阿弥陀仏」と書かれていて、
これもとてもきれいな像でした。
今、徳本上人様のためのお堂が建てられて、
大事に安置されています。

この文字が徳本上人の書かれた珍しい書体の「南無阿弥陀仏」ですが、
書かれた文字の横には「徳本」と書かれ、
その下に花押が書かれています。
この花押が丸い形でとてもかわいらしくて、
徳本上人ってきっと、とっても優しい方だったのではないかな?と思いました。

これが花押の意味なのだそうです。

徳本上人のことは、こんなにたくさんの本になって残っているらしいし、

こんな絵伝としても残されています。

徳本上人の言葉は、こんなふうに残されていたり、
また歌に歌ったりして、
人々にわかりやすいように、
理解しやすいようにして、
語ってくださったのだそうです。
今日は、和歌山大学の学生さんたちがこれらの文化財を調査、記録しておられましたが、
崩し字で書かれた流れるような文字を、
一文字一文字一生懸命に読んでおられた姿がとても印象的でした。
ちょうど、ある学生さんが読んでいたお手紙が、
徳本上人の命の灯火が消えようとしていることを知らせる文でした。
美しい文字で、お疲れの様子の徳本上人が、
今にもあの世へ旅立ってしまいそうだと書かれた文が、
静かな言葉で、きっと徳本上人を慕う人々に囲まれて、
最後の呼吸をされている徳本上人を描いているようで、
なんだか不思議な、とても大切な時間に立ち会ったような、
そんな気持ちがしました。
きっとたくさんの人に見守られてあの世へ旅立った徳本上人。
その翌年に、徳本上人を慕う人々によって、
徳本上人の書を写した供養塔が建てられました。

和泉大宮を降りていったところの共同墓地に、建てられているものですが、
江戸時代に作られたこの供養塔。
泉州砂岩で作られているとのことで、
ところどころが崩れてきていて、とても心配です。



正覚寺のご住職さまによると、
この修理をしていきたいが、どのようにすればよいのか、
いろいろに相談されたりしているそうです。
和泉の砂岩と言えば、和泉砂川の砂岩なのかな。
私は徳本上人のことはあまり知らなかったのですが、
厳しい修行をして、諸国をまわり、
人々のそばに来て、優しく念仏をとき、ともに念仏を唱えて、
どんな人もともに極楽へと救いの言葉をかけてくださった徳本上人は、
ほんとに人々の心に寄り添う方だったのだろうなと思いました。
「徳本上人絵伝」というものもあるので、
またゆっくり読んでみたいなと思いました。
ほんとに、岸和田にはすてきな生き方をされた人たちがたくさんいて、
なんぼでも人形劇ができそうな気がしてしまいます。
でも、もっともっとこういう「生きていた人々」のことを知る機会、
お知らせする機会があって、
そしてもっと関心をもってみてもらえるように、
なっていったらいいなと思いました。
今日は、「自主学習グループみち」さんとご一緒させていただいたのですが、
「みち」さんは、岸和田市内あちこちを歩いて、
歴史的遺跡の場所を、市民誰もがわかるようにする活動を、
ずーっとされています。
変わらずに活動されている方々が、本当にすごいなと、
その地道な努力がみのり、あちこちに立て看板を建てておられますが、
それに気づいていない人もまだまだたくさんいると思うし、
もっと気づいてもらえるように、
私もご案内していきたいなぁと、思いました。
今日はたくさんの宝物に出会えて、
貴重な体験をさせていただけた一日でした。
お世話になった方々、みなさま、
ありがとうございました。
と声をかけていただいて、
市内正覚寺さんに初めて行かせていただきました。
岸和田駅から海の方へ下っていったところ。

そして

正覚寺は、
寺伝によれば、もとは紀州根来寺(和歌山県岩出町にある新義真言宗総本山根来寺)の末寺で「摩頂山圓通寺智光院」という寺院であった。
しかし、天正十三年(1585)、豊臣秀吉が大軍をもって和泉から根来に入り、根来・雑賀の一揆を鎮圧する。
その兵火を受け、和泉一帯の根来勢力はほぼ一掃される。
別の寺伝には次のような記述がある。
「茲ニ天正十三年根来兵乱蜂起シ、當城戦乱騒擾之時、堂宇儘ク被為破壊、此時古来之山院寺號隠滅セシ」
つまり、当寺もこの戦乱の兵火に合い、堂宇が悉く破壊されたようである。
よって、開創年代を詳らかにすることはできない。
そして、天正兵乱以後、根来寺の勢力は急激に衰える。
和泉地方一帯の人々も、明け暮れる戦乱に疲れ、真の救いを求めて浄土宗のお念仏に帰依の心を深めていく。
当寺も新義真言宗から浄土宗へと人々の求めに呼応していく。
(岸和田市正覚寺ホームページより)
和歌山の根来の系統の真言宗として開いたお寺と言うことですが、
今日私たちがなによりたくさん見せていただいたのは、
江戸時代に念仏講を開いてお念仏を多くの人々に広めて回られた
徳本上人にまつわる、さまざまなものです。
徳本上人は、独特な書体で「南無阿弥陀仏」と書かれ、
いろんな人にお念仏をとかれてまわったそうです。
お寺には徳本上人ゆかりの品々がたくさんあり、
見せていただきました。
徳本上人はとても大柄な方で、
お寺に残る徳本上人の袈裟はとても大きくて、
180センチの方が羽織ってもまだ大きい、というようなものだそうです。
大きな団扇もあって、普通サイズよりもとっても大きな団扇でした。
これはご自分であおがれるものではなくて、
どなたかが徳本上人のためにあおいで差し上げたものなのでしょうね。。。
とご住職さまがおっしゃっておられました。
同じように扇子も普通よりも大きなサイズ。
大柄で、おおらかな、
そして人々にきっととても好かれた方だったのではないのかなと、
思いました。
徳本上人の像がふたつあり、
一つはシュッとした男前の像。
ちょっと小さな像ではありますが、
端正なお顔がとても素敵でした。
背中には金字で「南無阿弥陀仏」と書かれています。
お座りになったお姿ですが、
なんと底面に蓋がついていて、
そこを開けてみると、な、な、なんと!
徳本上人の爪と歯がきれいにしまわれていたのです。
しかも、歯には「南無阿弥陀仏」と書かれていました。
見事!としか言いようのないものでしたが、
人々が徳本上人のことを本当に大切に大切にされておられたことを、
想像しました。
徳本上人は和歌山日高のお生まれでした。
ある時、和歌山から岸和田にやってきたとき、
あまりに沢山の人がお迎えに出られたので、
徳本上人を載せた籠が前に進むことができず、
徳本上人が籠を降りられ、
屋根の上に上がり、そこでお念仏を唱えられた。
という話も残っているそうです。

この案内板の徳本上人は、
この正覚寺に残るもう一体の徳本上人さまです。
喉元から「南無阿弥陀仏」と書かれていて、
これもとてもきれいな像でした。
今、徳本上人様のためのお堂が建てられて、
大事に安置されています。

この文字が徳本上人の書かれた珍しい書体の「南無阿弥陀仏」ですが、
書かれた文字の横には「徳本」と書かれ、
その下に花押が書かれています。
この花押が丸い形でとてもかわいらしくて、
徳本上人ってきっと、とっても優しい方だったのではないかな?と思いました。

これが花押の意味なのだそうです。

徳本上人のことは、こんなにたくさんの本になって残っているらしいし、

こんな絵伝としても残されています。

徳本上人の言葉は、こんなふうに残されていたり、
また歌に歌ったりして、
人々にわかりやすいように、
理解しやすいようにして、
語ってくださったのだそうです。
今日は、和歌山大学の学生さんたちがこれらの文化財を調査、記録しておられましたが、
崩し字で書かれた流れるような文字を、
一文字一文字一生懸命に読んでおられた姿がとても印象的でした。
ちょうど、ある学生さんが読んでいたお手紙が、
徳本上人の命の灯火が消えようとしていることを知らせる文でした。
美しい文字で、お疲れの様子の徳本上人が、
今にもあの世へ旅立ってしまいそうだと書かれた文が、
静かな言葉で、きっと徳本上人を慕う人々に囲まれて、
最後の呼吸をされている徳本上人を描いているようで、
なんだか不思議な、とても大切な時間に立ち会ったような、
そんな気持ちがしました。
きっとたくさんの人に見守られてあの世へ旅立った徳本上人。
その翌年に、徳本上人を慕う人々によって、
徳本上人の書を写した供養塔が建てられました。

和泉大宮を降りていったところの共同墓地に、建てられているものですが、
江戸時代に作られたこの供養塔。
泉州砂岩で作られているとのことで、
ところどころが崩れてきていて、とても心配です。



正覚寺のご住職さまによると、
この修理をしていきたいが、どのようにすればよいのか、
いろいろに相談されたりしているそうです。
和泉の砂岩と言えば、和泉砂川の砂岩なのかな。
私は徳本上人のことはあまり知らなかったのですが、
厳しい修行をして、諸国をまわり、
人々のそばに来て、優しく念仏をとき、ともに念仏を唱えて、
どんな人もともに極楽へと救いの言葉をかけてくださった徳本上人は、
ほんとに人々の心に寄り添う方だったのだろうなと思いました。
「徳本上人絵伝」というものもあるので、
またゆっくり読んでみたいなと思いました。
ほんとに、岸和田にはすてきな生き方をされた人たちがたくさんいて、
なんぼでも人形劇ができそうな気がしてしまいます。
でも、もっともっとこういう「生きていた人々」のことを知る機会、
お知らせする機会があって、
そしてもっと関心をもってみてもらえるように、
なっていったらいいなと思いました。
今日は、「自主学習グループみち」さんとご一緒させていただいたのですが、
「みち」さんは、岸和田市内あちこちを歩いて、
歴史的遺跡の場所を、市民誰もがわかるようにする活動を、
ずーっとされています。
変わらずに活動されている方々が、本当にすごいなと、
その地道な努力がみのり、あちこちに立て看板を建てておられますが、
それに気づいていない人もまだまだたくさんいると思うし、
もっと気づいてもらえるように、
私もご案内していきたいなぁと、思いました。
今日はたくさんの宝物に出会えて、
貴重な体験をさせていただけた一日でした。
お世話になった方々、みなさま、
ありがとうございました。