![]() | チベット永遠の書―宇宙より遥かに深く 「シャンバラ」極限の恐怖の果てに「生」の真理を見た (1994/07) テオドール イリオン 商品詳細を見る |
この本が最初に出版されて72年の月日が流れた
当時のオカルティストはもとより
ヒトラーにも多大な影響を与えたとされるも
その間に起こった世界大戦の影響により
原版は失われ
1991年大英博物館職員らの協力により復刻されるまで
幻の著となっていた
本書はその日本語訳として出版されたものであり
著者イリオンの二つの手記をひとつの本にまとめたものである
テオドール・イリオン
ドイツ人探検家であった彼は
1934年 当時外国人が領内に入ることを違法として禁じていたチベットへ
単身潜入をし スピリチュアルに対する好奇心をもって
その貴重な体験を本書に著すことを成し遂げた人物である
この時代のチベットでは 白人は「ベーリン」と呼ばれ
見つかればただちに処刑されていた
チベットの民衆は「ベーリン」を
『心臓が無く不気味で悪質な化け物』
『ひどい悪臭を放ち近づくだけでポパ(チベット人)を病にする』と
本気で信じていたのだ
イリオンは金髪 青眼 白い肌という典型的なゲルマン人で
彼は聾唖のチベット人巡礼者に変装するために
貧しい巡礼者の身なりをした上で
どうしても露出する顔 手 頭部を
ヨードと油を混ぜた溶液でいかにも汚れた巡礼者のように染め
そして泥や炭でわざと汚しながらながら旅を続けた
青い双眸がばれぬよう 常に目を細め
時にはその眼すら失明の危機を感じながら
ヨードで黒く染色したのである
チベットの気候は荒く
一瞬のうちに猛烈な雷と豪雨がおこり
次の瞬間には50度の気温にあがる
そうかと思うと拳ほどの雹が殴りつけ一気に身も凍る寒さが襲う
これが一日のうちに繰り返されるのだ
食料は水と生の麦に少しの腐りかけのバター
何度も山賊に襲われながらの求道の旅
そうまでして彼が見たかったものはなにだったのだろう
この本は民俗学に興味のある人には
非常に面白い本ではないかと思う
70年前のチベットの民衆の生活風習が
非常にリアルに記録されているからだ
またオカルトやスピリチュアルに興味のある人にも
非常に刺激を与えるかもしれない
1920年代ころの写真などは
数少ないながらも被写体となった人物の持つ
高い知性をうかがわせるものがあるし
濃厚でプリミティブな呪術性を感じさせる人物もいるからだ
第二部の「チベットを覆う暗黒の世界」編においては
イリオンが訪れたという地下の秘密結社の王都について
詳細に描かれているが
これにより影響を受けた西洋のオカルティストの数は
枚挙の暇がないだろう
この先年あのニコライ・レーリッヒによる
シャンバラを求めた旅の集積「アルタイ ヒマラヤ」が発刊され
この時期のスピリチュアリズムは
勢いチベットへの強い関心を向けずにはいられなかっただろう
例えばシュタイナー ブラヴァッキー夫人
そして何よりヒトラーのチベットへの強い関心は周知のことである
しかし私自身はこの第二部に関してはあまり関心をもっていない
科学の発達した時代に毒されたリアリストの私には
現実に今シャンバラだのアガルタだのが
この「肉の世界」に実存するというのは
あまりにファンタジックすぎるからだ
とはいえCNNによれば
このイリオンが記す「神秘の谷」を
どこかの期間が科学調査に入ったらしいのだが
イリオンは特定の宗教に属してはいないのだが
その視点には あくまでも善悪の二極 即ち
キリスト教の多大なる影響から脱してはいないようにみえる
このミトラ由来の二極が文明に与えたるものの大きさは
本当に凄いと改めて実感させられている
彼が上昇する魂と下降する魂について理解をしていても
下降するということが冒涜の結果という理解でしかないのは
非常に惜しい気がする
この点において彼の目がもう少し開かれていたならば
もうひとつ深い叡智に触れることができたのではないかと
不遜であることを承知しながら
敢えて惜しいと思うのである
しかし70年前の下界と隔絶したチベットの辺境部にて
数霊術による解釈が行われている事実には
少々感動を覚えるし
イリオンが記すさまざまなラマの言葉は
現代のスピリチュアル本にそっくりそのままあるようなものばかりで
かえって私は苦笑してしまう
密やかな悪意をもって記されたラマの姿や
それに従う民衆の姿は
今の私たちと何も変わりはしない
特に霊性を高めるために行われる修行についての批評や
ベジタリアンへの痛烈な批評は
短いながらも我が意をいたりの思いである
(私はベジタリアン自体を批判しているのではない)
最後に 自分のために
この本の一部を記して終わりたい
『彼ら(チベットの賢人たち)によれば
霊性は人生に対する内的な姿勢の結果として
発露してくるものでなければならない。
それは自然に湧き出してくるものであり、
特定の方法や行によって獲得すべきものではないのである。
これらチベットの賢人たちは、
瞑想するために特別な姿勢をとったりは決してしない。
跪くこともしなければ、
特別の祈りの姿勢もとらない。
チベットの賢人たちは決まったときしか祈らないような人間ではない。
生活全体が祈りなのだ。』 第5章真の瞑想 偽りの瞑想より