孤独感は、

物理的に"1人"というのではなく、

感情的な問題だ。

 

もともと

「だれかとつながっているものだ」

という前提があると、

つながりを得られないときに、

孤独感を味わうことになる

 

世界がもともと自分1人だったら

孤独を感じることはないのだろうが、

自分以外のだれかが存在しているために

孤独を感じてしまうのだろう

 

子どももよく、

お母さんが離れようとすると、

寂しがって泣いてしまう

 

もともとお母さんと

つながっていた子どもは、

お母さんのことが

認識できるようになると、

ひとりぼっちになる不安を

感じる

 

感情のかたまりである子どもは、

保育園に預けようとすると、

最初は激しく抵抗する。

 

「怖いよー。

お母さんがいないと生きられないし、

愛情も与えてもらえない。

ちっとも楽しくないよー」と

寂しがっているのだ

 

でも、最初から

他人に人懐っこかったり、

保育園に慣れて、

そこでの楽しみが

見つかったりすると、

子どもはそれほど

泣かなくなる。

 

お母さんに依存せず、

「ばいばーい」と

にっこり笑って、

自分から楽しい世界に

飛び込んでいく

 

大人であっても、

 

「私は1人でも大丈夫。

この世界も悪くない。

そのうち友だちもできるだろう」と、

自分も世の中も

信じることができれば

孤独はさほど感じないはずだ

 

人間には、

孤独で辛い状況を

なんとか脱しようとする力が

備わっている。

 

これが健全に機能している人は、

孤独を受け止め、

それを乗り越えていくための術を

覚えていく

 

「人とつながろう」と

自分から積極的に人を求め、

自分をわかってもらおうとする。

 

自分を受け入れてもらうために、

人間関係を学んでいくだろう。

 

また、

孤独の中で自分と向き合い、

何かを生み出そうとする人もいる

 

そうして、

人の痛みがわかるようになったり、

1人でいる自信をもてたり、

人といることに喜びを感じたり

という学習を経て、

人間としての深みは増し、

成長していく

 

ところが、

ただ

「寂しさをまぎらわそう」

「1人にはなりたくない」と、

 

逃げの姿勢の人は、

なかなか孤独を

乗り越えられない。

 

そんな人には残念ながら、

孤独の苦しみが

絶えずついて回る

 

無理に人に合わせたり、

人の輪に形だけでも

加わろうとしていたり、

とりあえず物理的に、

1人にならない状況を

つくろうとしても、

 

「なんだか寂しい」

 

という気持ちを、

拭い去ることはできないはずだ。

なぜなら

心がつながっている

状態ではないからだ

 

一時的に孤独が解消されたとしても、

人とわかり合えない状況、

疎外感をもつ状況になると、

また孤独に陥る

 

孤独を受け入れ、

自力でなんとかしようとする

覚悟がないかぎり、

寂しさは続き、

依存できるものを

求め続けるのだ

 

"孤独恐怖症"というほど、

1人になるのを恐れて、

絶えず人との関わりを求め、

人がいないと生きていけない

というような人がいる

 

どうして人がいないと

そんなに寂しがるのか?

と考えると、

1つの答えが浮かび上がってくる

 

「人の評価に頼って生きているから」

「人はどう思うか」

「人が認めてくれるか」

 

と、他人の目からの評価が

生きている価値であり、

それを基準に行動しているため、

"1人"を楽しめない

 

人にもよるが、

10代、20代は、

いつも人と一緒にいないと

気が済まなかった人も、

年齢とともに

1人の生活を

楽しめるように

なってくるものだ。

 

自分のために

家庭菜園をもって

おいしい料理を作ったり、

自分の趣味に没頭したり、

一人旅を楽しんだり。

 

これは人からの評価がなくても、

自分で自分を認めたり、

喜ばせたりできるようになり、

自己完結できる力を

獲得したからだ

 

他人に依存している人は、

自分の欲求を押し殺したり、

逆に押しつけたり

しているところがある。

 

人がいないと自分の行動を

決められないようでは、

自分も相手も疲れてしまう

 

でも、

「人といるのも好きだけれど、

 1人でもOK」

 

と精神的自立ができている人なら、

相手と対等な関係が築け、

相手を思いやる気持ちももてる

 

そんな人は、

相手にとっても負担がなく、

心地いいだろう

 

他人をすべてわかることはできないし、

同様に、

自分をすべてわかってもらうことも

できない

 

会社のなかで孤立したとき、

気が合っていた友人と

意見が食いちがったとき、

恋人が自分の期待に反する

行動をとったとき、

親が自分のことを

認めてくれないとき

 

そのような状況になると

寂しいものだ

 

「どうして、わかってくれないんだろう」

と思うだろう。

 

そして、

「話せばわかってもらえる」

「わかり合えるはずだ」

 

という信念のもと、

無理に気持ちを一致させようと

がんばって、

これが、うまくいけばいいのだが、

気持ちが平行線だと

さらなる孤独が待っている

 

でも、

「相手も自分と同じように

考えてくれるだろう」

 

と思うのは、大まちがいだ。

 

それぞれ、ちがう人間だから、

考え方がちがうのは当然のこと。

 

それぞれ、別のDNAを受け継ぎ、

性質もちがえば、

育った環境もちがう。

 

受けた教育も経験もちがう、

出会った人もちがう

 

そんな異質な条件下で、

考えがちがったり、

理解できなかったりすることが

生まれてくるのは、

ごく自然な流れだ。

 

相手を、

自分とは同じでない

"別の人"として尊重しようとすると、

理解や賛成はできなくても、

その考えを認め、

受け入れることができる

 

「人はわかり合えるはずだ」

と思えば、わかり合えないことが

寂しく感じられるが、

 

「わかり合えないこともある」

と考えていれば、

わかり合っていくことが

うれしいもの。

 

「人間はわからないから、おもしろい」

 

「すべてはわからないけれど、

少しでもわかりたい」

 

と近づいていく姿勢が、

お互いの距離を

埋めていく

 

そもそも人間とは

孤独なものだ。

 

この世に生を享けてから

息を引き取るまで、

それぞれひとりの人生を歩いている。

 

家族や友人、恋人、仕事仲間など、

ほかの人と寄り添うことはあっても、

決して同じ線上になることはない

 

それに、

自分の考えにしたがって

のびのびと生きようとすると、

必ず、衝突や軋轢が生じる

 

そんなときに、

孤独を受け入れて、

「人それぞれ」

「わからないこともある」

 

とあっさりちがいを認めることが、

孤独から寂しさを生まない

知恵だと思うのだ