以前のブログに

大学入試の在り方について

特に国公立大学において

今後AOや推薦の比率が上がり

受験そのものが変わっていくだろう

ことについて書いたのだが

 

特に天下の東京大学が導入したからこそ

その賛否は横において、

意義があるとと書いたが、

 

非常に考えさせられるコメントをいただいたので

紹介したい。

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東京大学がAO入試を導入する意義、私は以下のように理解しています。
天才と呼ばれる(ギフテッドとも言われる)人達は、常人が理解できない才能を持っています。
しかし、その分偏りもあり、常人が当たり前にできることができないということがあります。
例えば、数学や物理は高得点なのに、国語は著しく点数が低い、コミュニケーションがとれないなど。
そのような偏りのある天才を、みんなと同じテストで振るいにかけることは、国にとっても大きな損失です。
東大では、数年前から「異才発掘プロジェクトROCKET」で、浮きこぼれてしまう子どもたちの才能を伸ばすことをしています。
AO入試も、偏りのある天才の能力を、東大で生かしてもらうためのシステムだと私的には思っています。

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今後日本は

「レベルの高い

ゼネラリストの養成」を目指すのか

 

それとも

「とびぬけた才能を持つ

スペシャリストを発掘・育成」するのか


 

他のどの大学でもなく

「東京大学」が導入したからこそ

 

この問題の答えを

暗に示していると考えている。

 

結論は言うまでもなく

「後者」であることは間違いないだろう。

 

世界中の芸術や学問における

天才と呼ばれる人たちに

 

「勉強もスポーツも

対人スキルも全て兼ね備えてる」

 

という人はいない。

 

「ある一つに圧倒的に飛びぬけている」

 

それが共通項だということに

異論はないと思う。

 

親としてわが子を「勝ち組」にしたい。

そう思うことは悪い事なのか?

 

「それは間違っています」と言える人は

いないだろう。

 

なんせ「定義」があいまいだからだ。

 

教育にかかわったものとして

 

子供時代にやるべきことを差し置いて

未来の社会に必要とされる能力や

スキルを慌てて詰め込んだとしても

 

日進月歩で生み出される

膨大な知識やスキルの前に

一人の人間が身に付けられる量など

たかがしている。

 

もっと言えば

そうまでして詰め込んだ能力やスキルが、

結局は未来の社会においてはもう

時代遅れになっている可能性すらある。

 

人よりも多くの知識やスキルを身に付けて

「勝ち組」になろうとするよりも

 

自分の資質や得意分野を生かして

身に付けた知識やスキルを

 

みんなのために提供できる人が

これからの時代では重宝される。

 

そういう人は、

どんな時代になっても必要とされるので

絶対にくいっぱぐれることはない。

 

「そうはいっても、

現実問題として、

受験があるじゃないか!」

 

そういう反論は当然だ。

 

問題はこの反論と僕の主張と

どこで「折り合い」を

つけるかだと考えている。

 

世の中がどんなに変わっても、

残念ながら受験制度は形を変えつつも

残り続ける。

 

小学高受験を選択するか?

中学受験をさせるか?

あるいは高校受験で頑張るのかは

それぞれの家庭次第だが、

 

AOや推薦がもてはやされるからと言って

全てがそうなるわけではない。

 

やはりペーパーテストの試験は

避けられないし

 

「脱偏差値」と声高に叫ぶ一方で

「偏差値競争も免れない」

それが現実だ。

 

じゃあどう折り合いをつける?

 

これは1つの私見だが

これからの時代を生きるうえで

重要な力さえ

ちゃんと育っている自信があるなら

 

学校の偏差値で学校を決めるのではなく

 

「自分の個性」「得意」が生かせる学校を

選ばせる。

 

そのためだったら

いくらでも学校見学など

厭わない。

 

「この子が無理なく頑張れる範囲で

頑張って得た学力を

その子の実力だと受け止めて

それで受験に挑戦し

その結果得られた道を

堂々と進めばいい」

 

一親として

僕はそう腹をくくっている。

 

(ただし、

頑張った、という部分が大事

 

頑張っていないのなら

 

やるべきこともやらず

ふらふらしているなら

 

実力云々も

偏差値がどうこうも言う資格はない)

 

受験制度がどうであろうが

受験との向き合い方を

変えればいいだけだと思っている。

 

「いい学校」に行きたいのなら

受験勉強を頑張ればいい。

 

しかしそうでないのなら

無理をする必要などない。

 

君はすでに、

これからの時代を生きていくうえで

一番重要なものは身に付けているから

心配するな」

 

そう子供を送り出してあげたい。

 

そういった本質を突く親のその姿勢が

正解のない世の中では

子供にとって

良きロールモデルになるはずだ。

 

でも、誤解されたくないのは

 

あれこれ考えるくらいなら

自分に自信が持てないなら

受験勉強だって

一生懸命やる価値は十分にある

ということだ。

 

受験勉強を通じて

知力と体力がつくことは

過去の膨大なエビデンスが

証明している。

 

さらにその勉強に

 

どれだけの意味が

あるのかは置いておいて、

 

目標のために、

必要だと決められたことを

やり抜くことで

非認知能力の中でも

「一番コア」な部分である

 

「やり抜く力」

 

これが身につく。

 

良くも悪くも日本の受験勉強には

そういう効果もある

 

ただし

間違ってはいけないのは

 

勉強しすぎて体を壊したり

丸暗記の勉強や

効率性重視

テクニック重視の

勉強法ばかり身に付けて

 

本当の意味の知力が

身につかなかったら

本末転倒だ。

 

また親や先生から

やらされる受験勉強では

「やり切る力」は身につかないことも

 

膨大なデータから

明確なエビデンスとして出ていることも

忘れないでほしい。

 

「勉強するのがつらい」

そういう子供に対し

 

「死ぬ気でやれ!」

というならだれでもできる。

 

そうじゃなくて

「なぜ今勉強するんだ?」

 

「勉強を頑張ることで

何が得られるんだ?」

 

 

大切なのは

 

「なぜ勉強するのか?」

 

ここを常に考えさせ

 

「やりたいから勉強するんだ」

 

そう思わせる教育者が必要だ。

 

教育に携わるすべての人間は

絶対にここをあいまいにさせたまま

 

がむしゃらに頑張る部分だけで

何とかしようとしてはならないと

僕は思う。

 

「勝ち組」の定義があいまいな人間が

なんと多い事か?

 

何をもって「勝ち組」だと言えるのか?

 

きちんと説明できない人間が

 

「勝ち組」を育てる教育などと

主張している時点で

 

「胡散臭い」

 

もし保護者が

わが子を塾に

入れようと考えているなら

 

塾を決める際

 

「勝ち組」というものを

貴塾ではどう定義していますか?」

 

「勉強を頑張る意味って何ですか?」

 

ぜひ聞いてほしい。

 

実績などいくらでもよく見せられる

 

「トップレベルの生徒が集まる塾で

トップレベルの実績が

出るのは当たり前」

 

本当の塾は

「合格数と合格率」は

両方見せる。

 

片方しか見せないのは

「自身がない」事の査証だ。

 

「わが子を預けて本当にいいのか?」

 

もし迷ったら、

この質問に対する回答で

その塾が投資に値するか

大体わかる。

 

胡散臭い「勝ち組」を育てる

教育とは

決別してほしい

 

それを祈るばかりだ。