そもそも当時の新卒研修の中で

「問題児」と烙印を押された僕に、

新卒研修を任せること自体、

僕は信じられなかった。

 

しかし、今思えば

当時の僕には重要な機会だった

自分で言うのもどうかと思うが

無い知恵を必死に絞り出し

まあまあ頑張ったと思う(笑)

 

 

 

「では僕の意見を言いおう。

その前に

今回、敢えて最初から回答を示さない

「議論」という形式にしたのは、

 

「何が正しい、何が間違っている」

という二元論で

終わらせるのではなく、

 

様々な意見を受けて、

自分なりに精一杯

考えてほしいという想いと、

 

他者の意見を

簡単に否定してはならない

という事を

君らなりにしっかりと

持ち帰ってほしかっただんだ。」

 

「ちょっと皆考えてほしいんだけどね。

今は多様性の時代と言われているけど、

果たしてどうだろう。

 

議論という都合のいい予防線や

言論の自由と言うことを盾に取り、

更には匿名をいい事に

実際は、自分の考えと違えば、

平気で寄ってたかってぼこぼこにする。

 

まるで自分が「神」だと言わんばかり、

徹底的に自分と異なる

価値観や意見を否定する。

僕には今の社会はそう映るんだ。

 

もちろん完全に間違っている事は

「間違っている」

とたださなければならないが、

 

1つのテーマに対し、

1つの答えしかないのは、

 

学生までの話であり、

社会では、正解は一つではない。

 

もっと言えば、

「正解はないかもしれない」

という事もある。

 

さて飯村くんの質問に戻ろう。

僕個人の考えとしては、

塾は「必要悪ではない」

と思っている。

 

勉強ができないから救いを求める

子供達のための場

 

教科書や学校の範囲を超えるような

意義深く、しっかり深耕しないと

わからないこと

教科を超えた沢山の事を教えて貰える場所

 

誰にも評価されず、

自分自身に自信が持てない子供たちに

全力で承認してあげられる場所

 

自ら進んで勉強ができるよう、

沢山の気づきやきっかけを与える場所

 

学習塾というカテゴリには、

僕たち側の都合ではなく、

 

通いたいと考える顧客側が、

「自分にとって、

この塾に通うだけの価値が

ある場所なのか」

を決める。

 

だから稲垣君が最初に行った

「必要悪である」という考え方も

1つの意見であり、

 

小山さんの「必要悪ではない」という意見も

1つの意見に過ぎない。

 

もちろん僕の意見もそうだ。

 

皆が学生時代どんな体験をして、

どんな価値観が醸成され、

 

そしてこの会社で

何を成し遂げようと考えているのか、

 

それが生徒や保護者のために

なるのであれば、

全てが正解であり、

誰にも否定する権利はない。

 

ただ今日の研修で

僕が一番君たちに

伝えたいことはたった1つ。

 

「学校教育の延長上に

学習塾を置いてはならない」

すなわち、

「学校の先生の延長上に、

塾の教師が存在するわけではない」

という事だ。

 

今日の議論は、僕が聞いている限り、

みんなが気付いていたかどうか

わからないが、

 

「学習塾には無限の可能性がある」

という事を話し合っていた。

 

「なぜ必要悪なのか?」

という意見に対し、

「なぜ必要悪でないのか?」

という議論は、

 

結局その回答全てが、

「学習塾には

これだけたくさんの通う価値がある」

 

そういっているとの同じだなと、

聞いていて思ったんだ。

 

僕も学生時代、

家庭教師、塾講師、教育実習、

という様々な経験をして今に至っている。

 

僕はこれらの経験の中で

沢山の「奇跡」に遭遇する事が出来た。

 

子供の可能性や

潜在能力が無限に近い事を

この目で何度も見てきた。

 

そして

「努力は報われる」と

一言で済ましてはならない事も知った。

 

正しくは

「努力をすれば、

報われる部分もあれば、

報われない部分もある」

という言い方が正しいかもしれない。

 

 

学校の教師と塾の教師に

根本的”な違いがあるのだけど、

誰かわかる人はいるかな?」

 

しばらく沈黙が続く。

皆必死に考えているが、

答えが見つからないようだ。

 

「今日のテーマの答えになるのだけど、

学校の教師は、

よっぽどの事がない限り

「教師」

という存在であることが

保証されているが

 

塾の教師は、

「先生」と呼んでくれる

「教師」と認めてくれる

そういう生徒が存在して

初めて教師と呼ばれる

という事なんだ。