常平通宝考 Part1 | outbackの旅日記

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日本中を気ままに旅する記録です。山の中の無人駅でビバークします。
タイトルが3代目になりました。レガシィ→ペケV→outback

私は古銭収集の趣味があります。現在力を入れているのは、李氏朝鮮時代に発行された、「常平通宝」という古銭を熱心に収集しています。そもそもお金というのはその時代の経済力を象徴し常に国の経営の血液としての役割を果たしています。現在の日本を考えますと、1万、5千、2千、千円の紙幣が発行され、補助通貨として、500円以下の貨幣が流通しています。
過去歴史上ずっと変わらないのでしょうか?そんなことはありません。そもそも紙幣などというのは、所詮紙であり製造コストは僅かです。日本の紙幣の製造コストは、どれも1枚当たり20円位です。それを日本国という信用が一万円なり、五千円なりの価値を持たせて通用させています。つまり日本国の信用の基に流通しているわけです。現在多くの国が、そのような信用で紙幣を流通させていますが、過去において紙幣をお金として流通させることに成功した国は僅かしかありません。では何をお金として信用したのでしょうか?それは、金、銀、銅に代表される金属です。現在では補助通貨等と呼ばれ、重くて皆基本的に小銭から処分していきます。海外旅行で、残った小銭は両替すらできません。
ですから基本的に古銭というのは紙幣ではなく貨幣ということになります。明治以降に発行された紙幣のほとんどは今も使用でき、古銭と呼ぶのは間違いなのです。(実際1円札を使う人はいませんが)
 
古銭というのは貨幣が基本と言いましたが、その中でも金貨が最も高価であり、次に銀貨、銅貨と続きます。実際庶民の間では、銀貨、銅貨程度しか流通せず、金貨は一部の特権階級者のみの持ちものでした。それでも江戸時代小判はかなり普及しましたが、庶民が気軽に持てるものではありませんでした。小判に対して大判というのも実際にありますが、これは実際に流通する事はなく、戦の褒章などで家臣に与える時の褒美として主に使用されていました。ですから現実に当時お金として流通していた物の殆どは銅貨と言う事になります。日本では有名なのが寛永通宝です。銭形平次が投げていたアレです。(フィクションですが)
日本ではアレが最低単位の1文銭と言う事になります。朝鮮ではそれが常平通宝になるわけです。この後は銅貨に絞って記述します。
アジアの貨幣はすべて中国が基本となっています。日本も例外ではなく実は日本は708年に和同開珎を鋳造して以降958年に12枚目の乾元大寶を鋳造して貨幣の鋳造をやめてしまっています。その後再開は秀吉の時代に明銭を勝手に写しで作るまで国として貨幣の製造をしていません。その間は中国から銅貨を輸入していました。ですから平安末期、鎌倉、室町時代は中国のお金が流通していました。周辺国はどの国も似たり寄ったりです。それだけ中国の技術が当時は圧倒的に優れていた事になります。今でも日本国内に中国古銭が大量に存在します。何しろ億枚単位で輸入していましたから、、、逆に言うと現在も多数残っている中国銭は市場価値としては、一般的に低く残存数の少ない各国オリジナル銭の方が高値で取引されるケースが多いのです。和同開珎のお手本となった、唐の時代の開元通寶は和同開珎が最低でも十万円以下の評価は無いのに、開元通寶は10円でも手に入れる事ができます。それだけ現代でも多くの残存があり、しかも技術がしっかりしているので良銭が多いのです。皮肉なものです。もちろん中国銭も多くの例外があり、とても高価なものもあります。開元通報も種類によっては高値で取引されています。ここでいう種類と言うのが、まだ当時の技術の限界だったのでしょうが、手変りが多いのです。今の現硬貨は、年代が違ってもデザインは同じですが、当時は全く同じものではそんなに多く作れず、一部字体が変わったり、跳ねが長くなったり、配置がわずかに偏ったりして変化していました。しかも今はほとんど偽造されることはありませんが、当時は民鋳と言って結構大々的に勝手に写しを作ったりしていました。
そういうもので、残存数の少ないものは天文学的な値段になったりしています。
常平通宝の話まで到達するまでに結構な量になってしまいました。
ここらで一旦区切りたいと思います。
  
 
文章ばかりでとても読みにくいと思います。次回は写真も入れようと思っています。
興味のある方だけ次回もお付き合いください。